『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(1)(井川耕一郎)


神戸映画資料館で『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)が上映されるとのこと(2月10日16:05〜、11日15:50〜)。
ちょうどいい機会だから、ドキュメンタリー制作の過程で『尺八弁天』について分かったことを書いておこうと思う。


『おんな地獄唄 尺八弁天』には、『男ごろし 極悪弁天』(69)という前作があることは、以前、渡辺護さんから聞いていた。
けれども、この『極悪弁天』がどんな映画だったのかが、ずっとよく分からないままだった。
何しろフィルムが残っていない(『尺八弁天』が残っているのは、渡辺さんが、これはおれの代表作になる、と思い、自腹で16mmを焼いたからだ)。
シナリオはまだあるかもしれないが、貸して下さいという機会がなかった。


しかし、四年前に渡辺さんのドキュメンタリーの制作を決めると、過去の作品のシナリオを読む必要が出てきた。
渡辺さんの家にあるシナリオをまとめて貸して下さい、と言ったところ、驚き呆れた答が返ってきた。
昔のシナリオをまとめてゴミとして捨てようとしたことがあったらしいのだ。だが、その直前にぴんくりんくの太田耕耘機さんが来たので、引き取ってもらったのだという。
太田さんに連絡してみると、90冊ほどのシナリオを保管しているとのことだった。
その中に『男ごろし 極悪弁天』のシナリオがあった。


『極悪弁天』のシナリオを読んで分かったことを記しておこう。
まずは、スタッフ、キャストなどの基本データ。


脚本タイトル:不明(表紙が赤いテープで補強されているため、読みとることができない)
公開タイトル:『男ごろし 極悪弁天』
公開年:1969年
制作:日本芸術協会(向井寛のプロダクションだが、実際には何もしていないとのこと。関東映配の仕事をしたがっていた向井寛に頼まれて、『極悪弁天』の制作をやったということにしたらしい。)
配給:関東映
監督:渡辺護
脚本:宗豊(石森史郎。ただし、第一稿は石森の弟子が書いたのではないかとのこと)
撮影:池田清二、照明:栗本和雄
出演:香取環、国分二郎、青山美沙、野上正義、津崎公平、吉田純、尾崎啓介


次にあらすじ(フィルムが残っていないので、少し詳しく紹介することにしたい)。


街道を行く盲目の少女・みき(青山美沙)は、権造(吉田純)と三次(尾崎啓介)につかまって、林の中につれこまれる。
それを助けたのが、弁天の加代(香取環)だった。
加代「娘さん、ここは助平おおかみのけものみちだよ。早くおいで」
加代はみきの手をとってその場を去る。


その夜、加代は熊井組の賭場にいた。
壷振りの留吉が壺を上げようとしたそのとき、「お待ち!」と鋭く加代の声が飛ぶ。
加代はサイコロをドスの刃先で叩ききり、イカサマを見抜く。
熊井「女だてらにいい度胸だ……こっちは受けて立つぜ」
殺気だって斬りかかる熊井(木南清)の子分たち。加代は熊井の肩口にドスを突き立てた。
旅籠に戻った加代はみきにすぐに旅立つ支度をするように言う。


翌日、加代は川の水を両手に受けて、みきに飲ませる。
あんた、いくつ?と訊く加代に、みきは十八と告げる。
加代「十八か……生きてりゃ妹と同い齢だ」「(妹は)あたしがね、七ツの時死んじまった。貧乏のどん底でね、病気になっても医者にもみて貰えないでね」
そのとき、加代は向こう岸に男が一人立っているのに気づき、立ち上がる。
対岸にいたのは熊井組の用心棒・英二郎(国分二郎)だった。
英二郎「……あんたをきる」「おれのドスがあんたの肌に触れた時は……地獄に直行している……熊井の親分が待ってる地獄へな」
加代「判った……きられてもいいわ」「その代り、条件がある」「あの娘を……松本まで連れて行くまで待てない?」「(松本に)あの娘の爺イさまがいるんだ」
英二郎「しゃばでひとつ位は功徳になる事をしてくたばりてえだろう……判った」


松本に着く加代とみき。だが、二人を待っていたのは、みきの祖父の墓だった。
「私……どうしたらいいか……」「私……死んだほうが……」と言うみきの頬を打つ加代。
みきが顔をおおって泣いているところに、三田村(野上正義)がやって来る。
三田村「あの、僕……悪いとは思ったんですが……貴女達のお話をすっかり聞いてしまいました」
眼科医の書生をしている三田村は、みきの目に関心があった。
三田村「もし、先生の診察で手術を受けて眼が見えるようになるんだったら、どうでしょう、手術させたら……」
みきの目が治ると知った加代は、手術費用をつくるために松本を出る。


萩江田の親分・猪之助(津崎公平)の賭場にやって来る尼僧姿の加代。
加代「春妙尼と申します……末席にて、遊ばせて頂きとうございます」
猪之助は壺ふりの吾一に目配せする。
加代から金をまきあげてひそかに笑う猪之助。
だが、壺をふろうとして、吾一はギョッとする。加代の膝が開いて白いももの奥がチラッとのぞいたのだ。
手もとが狂ってしまう吾一。結果は加代の勝ち。その後も加代は勝ち続け、大金を手にする。
加代が夜道を歩いていると、猪之助の子分たちが追いかけてくる。
子分たち「親分がサシで話をしたいと、そう言ってるんだがな」「温和しく来たほうがいいな。俺たちだって恨みつらみのねえあんたを斬りたかねえ」


猪之助の屋敷の奥座敷。猪之助は加代に酒をすすめながら言う。「身は黒染めの衣に包んではいるが、その体は存分に男の精気を吸いつくしている……この眼にはハッキリそう見えるがな」
猪之助はぐいと加代の手をとる。
加代「お離しを」
猪之助「やらずぶったくりか……賭場じゃたっぷり銭をせしめやがったくせに――」
するとそのとき、座敷に英二郎が入ってくる。
猪之助「誰だ、てめえ」
だが、英二郎はそれには答えず、取り押さえようとする猪之助の子分たちを払うと、加代の手首をつかみ、外へ出て行ってしまう。


英二郎は加代を木賃宿に連れていく。
加代「魂胆は判ったよ」
英二郎「そんなら話は早え……脱いでもらおうか」
加代「あんたもやっぱりただの男ね」
英二郎「ああ……人一倍慾の深い男さ……美人を見りゃ心を奪われるし、抱いてもみたくなる」
木賃宿の布団の上で交わる加代と英二郎。


翌朝、英二郎は加代からみきの手術のことを聞く。
英二郎「それにしても、変った女だよ……赤の他人をまるで血肉をわけた妹のように……危ない橋を渡りながらせっせとゼニを送ってるなんて……余ッ程の聖人君子か……大バカだ」
加代「ま、女だてらに極道の限りを尽くしたからね……この辺で罪ほろぼしの真似事をしてみたくなったのさ……こんな事をしても、私は地獄にしか行けない体なのにね……ふん……全く、呆れる程の大バカさ」
英二郎「(ボソッと)大バカが二匹か……」


加代と英二郎は松本に戻ることにする。
だが、猪之助とその子分たち、それに三次が二人の行く手をふさぐ。
加代「斬られるもんかい。妹の手術を無事に見る迄は……くたばってたまるかい」
英二郎「春妙尼サンよ、誤解しないでくれ。俺はあんたを助けるんじゃねえ……めざわりな鼠を片づけるだけだ」
加代と英二郎は一人、二人、三人……と敵を倒し、ついに猪之助にとどめを刺す。
英二郎「すぐ松本へ行こう」「警察がすぐ俺達を手配するだろう。妹にあえなくなるぞ」


そして、松本――。街外れの材木置場のそばを歩いていた三田村の前に、加代が飛び出してくる。
三田村「手術は成功です」「それなのに、貴女は……何故、何故あんな人殺しを……」
加代「三田村さん……お願いがあるの」「お願い……あの娘をひと目見るだけでいいの……そうしたら私、自首するわ」
三田村「包帯を外すのは午後です。五時にここで待っていて下さい」
三田村が去ったあと、材木の陰から英二郎が姿を現す。
加代「汚いゼニだったけど……あの娘の眼が……澄んだ美しい眼が開くんだよ……」
英二郎「(頷き)娘にあったら自首するのか……そうはさせねえ、俺が斬る」
加代「いいわ、あんたに斬られて死ぬなら……思い残す事はもうないもの……」


翌日の材木置場。五時五分前。
英二郎「そろそろ現れる頃だ……さりげなくすれ違うんだ。その娘はあんたの顔を知らない……」
加代「(強く頷く)……」
道の向こうを注視する二人。
そのとき、三次と猪之助の子分がドスを手に背後から襲いかかる。
三次にわき腹を刺される英二郎。加代も猪之助の子分に胸のあたりを刺される。
それでも、英二郎と加代は敵を倒す。
英二郎「加代……」
加代「英……二郎さ……!」
二人、両手をさしのべるが、触れ合わないまま、地面に転がり……息絶える。


五時。道の向こうにみきと三田村が現われる。
三田村、材木置場の約束した場所に立つ。
みきは、向こうの家の庭に花が咲いているのを見つける。
みき「ね、見に行きましょう。いろんな花の名前教えて……」
「あ、ああ……」と怪訝に見まわす三田村。だが、加代の姿はどこにも無い。
みき「早く……」
促がされて歩きだしている三田村。振りかえりながら去って行く。
材木の積み重なった陰に――転がっている加代の死体……英二郎の死体……。 (終)
(なお、渡辺護さんの話では、ラストの待ち合わせの場所は材木置場から橋の上に変更したとのこと。また、橋の下に広がるすすきの原で、弁天の加代・英二郎とヤクザたちの死闘を撮ったと語っている)


『極悪弁天』のシナリオを読んで、まっさきに思ったのは、ええッ! 弁天の加代、死んじゃうの?だった。
なるほど、渡辺さんの映画で主人公が死んで終わりというものは他にもある。
第一作の『あばずれ』(65)も、第二作の『紅壷』(65)もそうだった。代表作の『(秘)湯の町 夜のひとで』(70)や、『聖処女縛り』(79)もそうだ。
そして、表向きの主演は秋吉久美子だけれども、実質的に役所広司が主演の『紅蓮華』(93)もそうだった。
しかし、シナリオを読むとき、こっちの頭の中にあったのは「弁天シリーズの第一作」ということだった。だから、『極悪弁天』のラストにはうろたえてしまったのだ。


もっとも、当時の関係者にも二作目をつくることにはとまどいがあったらしい。
『極悪弁天』のヒットで、映画館の館主たちから「続篇を!」と求められた関東映配の社長は、渡辺さんにおそるおそる訊いたそうである――「弁天、死んじゃったんだよね? 続篇、できるかな?」
結局、渡辺さんは続篇を撮ることになるのだけれども、そのときのことをふりかえってこう言っている。
「最後で死んだと思ったら、実は生きてましたってことで続くのは、映画じゃよくあることだからね。実にいいかげんなものなんだよ」
最近では北野武の『アウトレイジ2』がこれにあたるのだろうが……。


とはいえ、映画によくあるいいかげんさで、第二作『尺八弁天』がつくられたという証言には、ちょっと信じられないところがある。
弁天の加代の死を無視して、二作目をつくってよいというのであれば、また脚本を石森史郎に頼んでもよかったはずだ(石森史郎だって、きちんとした脚本家である)。
けれども、渡辺さんは大和屋竺に第二作のシナリオを頼んだ。これはどういうことなのだろう?


大和屋竺がシナリオを書き、若松孝二が撮った『処女ゲバゲバ』(69)で、星は屠殺人たちに撲殺されたと見せかけて、ボスたちに復讐をした。
しかし、大和屋さんは、自分がシナリオに書いた「撲殺されたと見せかけて」という展開に実は納得していなかったのではないか。
そんなふうに思ってしまうのは、シナリオにはない一シーンを大和屋さんが現場で書きたしているからだ。
死にかけの花子が意識を取り戻し、死んでしまった(と思われる)星と対話するシーン(「星の「おれ、もう人間じゃなくなったんだ」「おれ、死んじゃったんだ」という台詞がとても印象的だ)。
あのシーンを現場で書くとき、大和屋さんは「星は本当に撲殺されるべきなのだ。そうして、よみがえって地上から暴力を一掃すべきなのだ……」と考えていたのではなかったか。


渡辺さんは1969年の時点で『処女ゲバゲバ』を見ていない(この時点で渡辺さんが見ていた大和屋竺作品は、監督作では『裏切りの季節』(66)、『毛の生えた拳銃』(68)、脚本作では『殺しの烙印』(67)、『情欲の黒水仙』(67)くらいだ)。
けれども、渡辺さんは大和屋さんらしい奇想で、死んだ弁天の加代がよみがえることを期待していたのではないだろうか。


『極悪弁天』と『尺八弁天』のシナリオを比較して気づくのは、「地獄」という語の使い方のちがいだ。
『極悪弁天』の「地獄に直行している」、「地獄にしか行けない体」という台詞に比べると、『尺八弁天』の台詞は地獄の光景をイメージするように誘うものになっている。
たとえば、シーン5の本多の台詞「地獄へ行くにはまず高い所へ昇らなくっちゃならん。谷底に針の山が見えるしかけだ」がそうだし、シーン9の弁天の加代の次のような独白もそうだ。
「おみかけ通りです。仏さま。女極道にございます。人をあやめたことも一度ではありません。この手はもう洗っても落ちない血の海に浸っております。あなたさまのお教えどおり、極楽浄土は千万億土の遠くです。地獄におちて裂かれるのは覚悟の上……ですが、仏さま。お慈悲ですからせめて、せめてあのお方のお声なりとも、私の耳に届かせて下さいまし……」
また、シーン9(弁天の加代が救出されたあとの幻想シーン)では、弁天の加代の混濁した意識が感じ取ったものが映像となっている(ト書きには、「女体の悶え−−誰か男の手が、加代の柔肌を優しく愛撫している」、「五百羅漢、浮かび上がる。/観世音菩薩の柔和な微笑がその向うにある」などとある)。
どう考えても、大和屋竺は、弁天の加代が臨死体験をくぐりぬけて、この世に帰還するところから本格的にドラマを始めようとしている、と思うのだが、どうなのだろう。


それに、渡辺さんもまた意識的に『尺八弁天』を弁天の加代が地獄からよみがってくるドラマとして撮ったのではないだろうか。
本多の「地獄へ行くにはまず高い所へ昇らなくっちゃならん」という台詞を生かそうとしてなのか、弁天の初登場カットは、屋根の上だった(ここに伊藤大輔の影響を見ることもできる)。
そして、シーン6〜8は採石場に変更されていて(シナリオでは山小屋の中)、これが異様な雰囲気をただよわせていた。
ところどころに切り取られた石の直線的な輪郭が浮かび上がる巨大な洞穴の奥底で、弁天の加代が蝮の銀次たちに陵辱される――。
このシーンには、異界を画で見せてやろうという強い意思が感じられるのだが……。