『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(2)(井川耕一郎)


渡辺護さんの話では、観客の反応を見ようと、『極悪弁天』を上映する映画館に行ったところ、向井寛と、当時、助監督だった稲尾実(深町章)がいたという。
向井寛は映画の出来に感心したらしい。稲尾実も『極悪弁天』に感動し(劇場内で拍手した)、その後、『尺八弁天』の助監督に志願したという。


ちょっと気になるのは、稲尾実の「『尺八弁天』より『極悪弁天』の方が面白かった」という感想だ(この感想は『喪服の未亡人 欲しいの…』の仕上げのときに、本人から直接聞いたことがある)。
渡辺さんによると、これと同じことを国分二郎(『極悪弁天』では英二郎、『尺八弁天』ではセイガクを演じている)も言っていたという。
二人の感想について、渡辺さんは半分冗談みたいな言い方で「あいつらは一般庶民だからさ、大和屋のホンのすごさが分からねえんだ」と言っている。
(普段、「映画は大衆娯楽」と言っている渡辺護が、急に「あいつらは一般庶民だからさ」と言いだすのは、どう見たっておかしいのだが……)


稲尾実と国分二郎の感想には考えさせられるものがあるだろう。
私たちは『尺八弁天』をひとに紹介するとき、「ヤクザ映画」、「任侠映画」の傑作というふうに言ってしまいたくなる。
けれども、本当にそれでいいのだろうか。「一般庶民」が「ヤクザ映画」や「任侠映画」に期待するような面白さを備えていたのは、『尺八弁天』ではなく、『極悪弁天』だったのではなかったか。
『尺八弁天』には、「ヤクザ映画」、「任侠映画」の枠からはみだしている部分があって、そこに魅力があるのではないだろうか。


『尺八弁天』は『極悪弁天』から何を受け継いだのか。そして、受け継いだものをどのように変奏していったのか。
渡辺護大和屋竺に『尺八弁天』のシナリオを頼むときに、石森史郎が書いた『極悪弁天』のシナリオを渡したという(大和屋が完成した『極悪弁天』を見ているかどうかは不明。渡辺さんの話では「大和屋は若松プロ以外のピンク映画もよく見ていた」と言うのだが)。
大和屋さんは『極悪弁天』を読むとき、弁天シリーズを成立させるのに必要な要素は何かと探りながら読んだはずだ。
そのときに、大和屋さんはシリーズの構成要素は四つだと判断したのではないか。
つまり、(1)少女の救出、(2)復讐、(3)殺意と表裏一体の愛欲、(4)変装。


まずは、少女の救出について。
『極悪弁天』で、弁天の加代は盲目の少女・みきを松本まで送り、さらに彼女に目の手術を受けさせるのだが、みきを助ける理由を次のように語っている。
「十八か……生きてりゃ妹と同い齢だ」「(妹は)あたしがね、七ツの時死んじまった。貧乏のどん底でね、病気になっても医者にもみて貰えないでね」
『尺八弁天』でも、加代は、折檻をうけ、土蔵に閉じこめられたさよを救出する。が、『極悪弁天』とちがうのは、弁天の加代が過去について語る場面がないことだ。


けれども、大和屋竺は弁天の加代の過去がひとりでに分かるようにドラマをつくっている。
夜遅く、風呂に入るシーン25で、加代はさよに背中の刺青を見せながら語る。
「分ったでしょう。私は終い湯にしか入れない女なのよ。いつも他人様の眼が恐くてまともに顔も見られない女なの。もうこれ切り、私のことは金輪際忘れて頂戴」「偉くて強い女なら、こんな自堕落はしないはずよ」
このとき、加代はさよと少女だった頃の自分を重ね合わせている。
加代とさよ――よく似た響きの名前にしているところから見ても、大和屋が二人の間に分身関係を設定していることは明らかだろう(『荒野のダッチワイフ』でも、大和屋は分身関係にある登場人物に、コウ−ショウ、リエ−さえというふうに名前をつけていた)。
おそらく、さよが体験する身売りや折檻に近いことを加代も体験し、そうした悲惨な人生から脱け出そうと悪あがきしているうち、背中に刺青をいれ、ヤクザになったにちがいない。


復讐についてはどうだろう?
『極悪弁天』では、英二郎が賭場で親分を斬った加代に復讐しようとするが、『尺八弁天』では、弁天の加代が自分をヤクザたちに売り渡した刑事の本多に復讐を誓っている。
いや、加代の復讐の対象はそれだけではないだろう。
宿屋で、人買いの嘉助の腕を思いきりねじりあげながら、「(さよの父が受け取った金に利息をつけた分を)渋川でそっくり渡してあげる。それ迄はあの娘に指一本触れないと約束してくれ」と言って、階段下へと突き落とす場面。
加代が少女だった頃の自分とさよを重ね合わせているとしたら、ここでも復讐への意志は働いていると言えるのではないだろうか。
(もっとも、この場面は大和屋さんが書いたものではなく、渡辺さんが足した場面なのだが)


加代が復讐への意志をになったことで、『尺八弁天』での彼女と暴力の関係は、『極悪弁天』とは異なるものになっている。
『極悪弁天』のときの加代は、わが身とみきの将来を守るためにやむをえず相手を斬っていた。
だが、『尺八弁天』の加代は、復讐への意志に衝き動かされている。よりはっきり、暴力にとり憑かれた人間となっている。
ところが、ここが興味深いところなのだけれども、『尺八弁天』の加代は、シーン9で前回引用した「おみかけ通りです。仏さま。女極道にございます。人をあやめたことも一度ではありません。この手はもう洗っても落ちない血の海に浸っております」という独白に続けて、こんなことも言っているのだ。
「ああ、女だてらにこの極道……何度白刃の下でこのまま死のうと、死んで悪業の報いを受けようと思ったか知れません……ですが、仏さま……意地も伊達もございません。私はおぼろなあのお方の姿がこの世のものかどうか、ただそれだけが心にかかって……」


ヤクザが自分のあり方を否定するような台詞を言うのは、他の「ヤクザ映画」や「任侠映画」でも見られることだ。
けれども、『尺八弁天』の加代は、「仏さま……」と超越的な存在に向かって呼びかけている(ラストでも、加代は空を見上げて「仏さん……お慈悲ですからさあ」とつぶやく)。
また、「私はおぼろなあのお方の姿がこの世のものかどうか、ただそれだけが心にかかって……」と言うとき、加代は超越的な存在を探し求めているようにも見える。
『極悪弁天』の加代は、自分が生まれ育った貧しく悲惨な境遇を乗り超えようとして、結果的にヤクザとなった。
しかし、『尺八弁天』の加代は、ヤクザとなった自分自身をも乗り超えたいと思っているのではないだろうか。
暴力にとり憑かれた人間である自分を乗り超えたいという思いが、『尺八弁天』の加代の奥底にはあるのではないだろうか。


暴力にとり憑かれる一方で、そんな自分を乗り超えたいと願わずにはいられない。
このような矛盾は、大和屋竺が描いた他の登場人物にも見られるだろう(たとえば、『処女ゲバゲバ』(69年・監督:若松孝二)で、「もう人間じゃないんだ」と言う星や、『野良猫ロック セックス・ハンター』(70年・監督:長谷部安春)で、星条旗がはためいていたポールを撃って微笑むものの、次の瞬間、真顔に戻ってしまう数馬)。
けれども、「仏さま……」と呼びかけずにはいられないという点で、『尺八弁天』の加代の矛盾はもっとも大きいものだったのではないか。
おそらく、この矛盾が、『尺八弁天』を「ヤクザ映画」や「任侠映画」の枠からはみださせる原因となっていると思うのだけれども……。