風と家と唇―大工原正樹『風俗の穴場』について―その1(井川耕一郎)

 テープを巻き戻したら、もう一度最初から見ることにしよう。そう思わせる何かが『風俗の穴場』にはある。だが、大工原正樹によると、この作品の準備期間中はトラブル続きだったらしい。シナリオの直しは難航し、脚本家と決裂した大工原は助監督と手分けして大急ぎで撮影台本を完成させなくてならなかった。また、主演予定の女優が急に出られなくなり、代わりの女優をクランクイン前日まで探していたという。本当だろうか。完成した作品にはそうした混乱の痕はまるで見られない。スタッフ、キャストの一人一人が、力むことなく、自分の力を素直に出しきっている――そういうすがすがしさが『風俗の穴場』にはある。
 とにかくもう一度、『風俗の穴場』を見てみよう。冒頭はファッションヘルスの個室で、ヘルス嬢が船山という客(大久保了)にちょっと前に店で起きた事件のことを話している。「みちるちゃん、小学校のときに両親が離婚して、父親とはそれきり会ってなかったんだけど、そのお客さんの顔を見て、すぐにお父さんだって分かったの……」。だが、父親は我が子だと気づかなかった。結局、みちる(吉岡ちひろ)はフェラチオをしながら泣きだし、父親(廣瀬昌亮)も事情がまるで分からないまま、つられて泣きだしてしまったという。
 ビデオのパッケージから予想される軽いノリのドラマとは違う話がいきなり展開して、とまどう人がいるにちがいない。しかし、それ以上に、おや?と思ってしまうのは、その話を語るヘルス嬢・チャコのあり様だ。まずはみちると父親が抱き合って泣いているところを目撃し、あとでみちるから話を聞いたというのが、チャコの事件との関わり合い方だろう。だが、彼女はまるで最初から事件の現場に居合わせたかのように語りだす。しかも、彼女の口調には、事件の一部始終を見ていたのに、この親子を助けることができなかった、とでもいうような悲しみがうっすらにじんでいる。
 さらに気になるのは、彼女の目だ。事件が起きた個室にいるというのに、彼女は遠い目をしながら話している。あのとき、わたしはここにいながら、ここにはいなかったのです、とでも告げているような目。一体、これはどういうことなのか。彼女の目を見ていると、ひょっとしたらこの子は人間ではなく、幽霊なのではないか、とすら思えてくる。
 いや、幽霊というより、風かもしれない……。そう思えてくるのは、チャコがみちるの話を終えて、船山にフェラチオをするあたりからだ。チャコが船山の股間に顔を寄せたところで、場面は草原に変わる。草の上に座ってオカリナを吹くチャコと、そのオカリナの音に合わせて踊る裸の船山。これがギャグであることは分かっている。実際、船山を演じる大久保了の踊りは、快感が高まっていく様を必死になって表現しようとしていて、おかしい。だが、それ以上にこの場面でいつまでも見ていたいと思わせるのは、真剣にオカリナを吹くチャコの姿なのだ。そして、彼女の姿を見ているうちに、私たちが感じるのはそよぐ風なのである。
 風といえば、忘れられないシーンがある。暴走族あがりの互助会の営業マン・大石(長岡尚彦)がチャコに「舎弟にしてほしい」と言うきっかけになった場面だ。シナリオのうえでは、在宅でファッションヘルスの仕事をしながら、雑誌編集者・船山の注文でマンガも描いているチャコの姿に感動して、大石は舎弟になろうと決意したことになっている。だが、これは舎弟になりたい理由としてはどこか説得力に欠ける。にもかかわらず、私たちが大石の決意に納得してしまうのは、彼がマニュアルどおりの営業トークをチャコの前で必死になって喋るシーンをその前に見ているからだ。このとき、チャコは座卓に頬づえをついて、ちょっと微笑みながら大石の営業トークを聞いている。そのチャコの表情はとても魅力的なのだけれど、それより大切なのは、彼女がうちわをゆっくりあおぎながら、大石に風を送っていることだ。大石もまた私たちと同じように、チャコからそよぐ風を感じたのである。そして、風に魅了されたにちがいないのだ。
 ところで、名前を記すのが遅れてしまったが、チャコを演じた女優の名は石川萌という。『風俗の穴場』の一番の美点は、徹底的に石川萌のアイドル映画であろうとしている点にあると思うのだが、最初に書いたように石川萌が主演に決まったのは、クランクイン前日であった。このことは何度聞いても、信じられない話だ。『風俗の穴場』を見た今となっては、主演に他の女優はとても考えられない。それくらい、『風俗の穴場』の石川萌は、風を思い出させる透明度の高さで、見る者の心にいつまでも残る女優になっていると思う。