風と家と唇―大工原正樹『風俗の穴場』について―その2(井川耕一郎)

 演出家にとって、シナリオにのれないというのは絶望的な状況だ。大工原は『風俗の穴場』のシナリオを何とか直そうとするが、これだ!という直しの方針はなかなか見えてこない。ところが、ロケハンのついでに立ち寄った築四十年はたっていそうな一軒家の中を見ているときだった。シナリオでは主人公・チャコの住まいはマンションとなっているが、この家に住んでいるという設定に変えてみたらどうだろうか……。そんな考えがふと思い浮かんだとたん、大工原の頭の中で、急にドラマが生き生きと動きだしたのだという。
 一体、その古い家はどんなふうに大工原の想像力を刺激したのか。一つには、ここでなら在宅でファッションヘルスの仕事をするという場面が面白く撮れそうだということがあっただろう。和室に、いかにも昔ふうの洋室に、台所。それに浴室には木の風呂桶がある。こうした家の間取りを活かしたファッションヘルスのサービスを考えてみよう。それから、順番待ちの客たちには縁側に並んで腰かけてもらってはどうだろうか。これは何だかおかしな画が撮れそうだ……。
 だが、大工原の想像力をもっとも刺激したのは、その家にエアコンがなかったということではないだろうか。季節は夏である。エアコンのない家ならば、庭に面した窓を開けっぱなしにしておくしかない。しかし、その窓の近くに風鈴をぶらさげておけばどうだろうか。それから、チャコがマンガを描く文机のすぐ横に扇風機を置いておくのだ。そよぐ風をたえず肌で感じ取れるような、風通しのいい家――そういう家に住むにふさわしいすがすがしさを持つヒロインとしてチャコを描いてみよう。大工原はそう考えたにちがいない。
 チャコのキャラクターと住む家とを深く結びつけること。そうすることでドラマにはどんな変化が生じたのだろうか。まずは、雑誌編集者・船山がチャコの様子を見に、家を訪れるシーンを見てみよう。船山はマンガの進み具合を確かめたあと、ズボンを脱いでチャコの前に突っ立って言う。「在宅ヘルスのお客第一号になりたいんだけど」。しかし、チャコは船山に向かってこう答えるのである。「ここはわたしの仕事場。わたしはマンガ家で、船山さんは編集者。公私混同はよしましょう」。
 船山は「こわい。お店のチャコちゃんとは別人みたい」と言うものの、チャコの言葉を受け入れて客であることをやめる。おそらく、こうしたセリフのやりとりは脚本家が書いた初稿にもあったものだろう。船山は性的な快楽はあきらめて、仕事を取ったというわけだ。だが、完成した作品を見ると、船山は「快楽か、仕事か」といった選択とは少しちがう選択をしているように思える。
 もう一度、船山がチャコの家を訪れる場面を見てみよう。船山はチャコの家を訪れるとき、玄関からではなく縁側から家の中に上がる。要するに、彼は自らを涼風に似せて、風の通り道をたどり、家に入ってきたわけである。そして、チャコと仕事の話をちょっとだけしたあと、扇風機の前に座り、土産として持ってきたスイカを転がして遊びだす。このとき、船山はチャコの家でくつろぐことに楽しみを見出しているように見える。だとしたら、このあと、彼が行う選択は「快楽か、仕事か」ではなく、「性的な快楽か、家でくつろぐ快楽か」というものだったのではないだろうか。
 いや、チャコのキャラクターと家を結びつけることで大きく変わった登場人物ということで言うと、船山より長岡尚彦演じる大石の方が重要だろう。大工原によれば、脚本家が書いた初稿では、大石は大人のオモチャのセールスマンで、チャコに在宅ヘルスの客と間違われていい思いをして帰っていくという程度の小さな役だったという。大工原は、その大石がチャコの家に住みつくようになる展開にすれば、ドラマが面白くなるかもしれないと思ったが、具体的にどんな芝居を彼にさせたらいいのかが見えてこなかった。しかし、チャコの住まいを変えたとたん、大石が生き生きと動きだしたという。
 完成した作品を見ると、チャコの家に舎弟として住むようになった大石は、縁側で順番待ちをする客たちにスイカやところてんを出し、マンガのアシスタントとして原稿に色を塗り、駅前で在宅ヘルスのチラシ配りまでしている。だが、大工原がなかなか思いつかなかった芝居とはそういうものではなかったろう。たぶん、大工原がひっかかっていたのは、チャコが大石を在宅ヘルスの客と間違えてサービスしてしまうシーンがあることだ。エロティックなOVである以上、エッチなシーンははずせない。しかし、そういう体験をした大石が客として通うことよりも、住みこみで在宅ヘルスの手伝いをすることを選ぶようになるには、何か芝居が決定的に足りないのもたしかなのだ。
 結論から言うと、古い一軒家に変更することで大工原が思いついた芝居とは、前にも書いたようにチャコがうちわで送ってくる風を感じることであった。性的な快楽よりも、風通しのいいチャコの家に住むことに快楽を見出すこと。大石は船山とよく似た選択を行ったのだ。たとえば、大石が舎弟としてチャコの家に住みこむことになった初日の夜の場面を見てみよう。マンガを描くのに疲れたのか、文机の上に顔をのせて眠るチャコを、大石は回り廊下の縁側からかがみこんだ姿勢でじっと見つめている。このとき、彼が見せるおだやかな表情は、覗き見するスリルとはまったく縁のないものだ。大石は窓からかすかに吹いてくる夜風に自分を似せて、チャコを静かに見守ることができたことに幸せを感じているのである。
 こういう大石や船山のあり方についてさらに考えるために、廣瀬昌亮演じるみちるの父・勝呂のあり方をあらためて見てみよう。ファッションヘルスを辞めたみちるが我が子であると知らない勝呂は、彼女の住むマンションを探しだし、留守電にメッセージを残す。「本当はみちるちゃんとセックスしたいんだけど、それは我慢します。とにかく会いたいんだ。淋しいんです」。そして数日後、勝呂は彼女の家を訪ね、ドアをノックして言う。「いるのは分かってるんですよ。でも、今日は帰ります。映画のチケット、置いていくから、一緒に見に行きましょう」。
 勝呂はみちるに「会ってくれるだけでいい。映画を一緒に見にいこう」と言っているが、それは性的な欲望を満足させるためには、回り道をしてもかまわないということでしかない。一方、大石や船山が選んだ道は、性的な欲望の中から、親密さを求める気持ちだけを純粋に取り出すことであった。そのために、船山はチャコとの関係を「マンガ家―編集者」という関係に、大石は「姉御―舎弟」という関係に限定して、チャコのキャラクターと深く結びついた家でくつろぐ権利を得る。そして、性的な欲望を遠ざけるかわりに、限定された関係の中でチャコとより親密になることを目指そうとするのである。
 ところで、大石や船山は親密さを求める試みの中でどれくらい満足したのだろう。答は、かなりの程度、満たされたということになるだろうか。たとえば、大石が風呂場でチャコの背中を流すシーン。チャコが「ファッションヘルスの仕事は顔やせするの」と言うと、大石は石鹸のついた手で彼女の頬をマッサージしだす。このとき、チャコを演じる石川萌が思わず笑ってしまうのだが、その笑顔は二人の間に性的欲望ぬきの親密さが成立していることを見事に表現していたように思う。あるいは、チャコ、大石、船山にみちるが加わって(父親のストーカー行為から逃れるために、彼女はチャコの家に来たのである)、四人で晩ご飯を食べるシーン。「それでは、新たな居候、みちるちゃんに乾杯!」と言うときの船山は家でくつろぐ楽しみを十分に味わっているように見える。
 だが、チャコと親密になればなるほど、彼らには彼女に関する重要なことが見えなくなってしまっているのもたしかなのだ。一体、チャコはなぜ風通しのいいこの家にたった一人でずっと住み続けていたのか。そして、なぜチャコは風を連想させるようなたたずまいを身につけているのか。これら重要事項に関する真相が見えた瞬間、ドラマは大きな転換点を迎えることになる。