石田民三『花ちりぬ』について(井川耕一郎)

石田民三の名を知ったのは、十二年前に出た『映画百物語 日本映画編』(読売新聞社)によってだ。
その本の中で、筒井武文さんが石田民三の『むかしの歌』を論じていたのである。
「『花ちりぬ』がバロックだとしたら、『むかしの歌』は古典主義者の撮った映画である」
「(『むかしの歌』での石田民三のスタイルは)溝口のように長廻しだが、小津のように固定画面なのだ」
「そのタッチの違いは『むかしの歌』がストローブ=ユイレだとすれば、(『をり鶴七変化』や『雲月の妹の歌』は)マックス・オフュルスサミュエル・フラーだと言いたくなる程の振幅に富む」
何だか多羅尾伴内みたいな映画監督ではないか、石田民三は。


しかも、筒井さんは批評の後半にこんなことも書いているのである。
石田民三の神話を作る挿話としては、戦後すぐに映画界から引退し、お茶屋の主人として、短くない余生を過ごしたことだろう」
これじゃ、まるで詩を捨てて旅立ってしまったランボーだ……。
すごく見てえなあ、石田民三!と、そのとき、私は強く思ったのであった。
しかし、その機会はなかなか訪れなかった。
石田民三を見ることができるようになったのは、ここ一、二年のことだ(しかも、スクリーンではなく、ビデオで、であるけれど)。


さて、そこで『花ちりぬ』。
ビデオの音がよくなくて、いくつかの重要なセリフが聞き取れなかったのがつらいところだが、
しかし、見終えた私はただTVの前で、ううむ……、とうなるしかなかった。


映画の冒頭、『花ちりぬ』というタイトルが出たあと、スタッフ、キャストの名前が続けて出るのだが、そのとき、バックに数匹の金魚が映るのである。
あの金魚のカットは、『花ちりぬ』という作品がどういうふうに成り立っているかを予告していたのだ、と見終えたあと、しばらくして気づいた。
と言うのも、『花ちりぬ』は、祇園のとあるお茶屋だけに舞台を限定し、画面に登場するのは女優ばかり、というつくりになっていたからだ。
男性は完全に画面から排除され、声しか聞こえないのである。
要するに、冒頭の金魚のカットで重要なのは、実は金魚ではなく、金魚が泳いでいる環境、つまり、金魚鉢であったわけだ。
しかし、金魚鉢がそこにあることなど、まるで私は気にしてなかった。金魚が泳いでいることを当然のことのように見ていただけなのである。
同じようなことが作品全体にも言える。
『花ちりぬ』は、場所、登場人物を極端に限定していながら、そのことを観客に強くは意識させない。
そうして、75分の中編とは思えないくらい密度の濃いドラマを語っているのだ。


『花ちりぬ』が限定しているのは、場所と登場人物だけではない。
元治元年七月十七日から十八日にかけての出来事というふうに時間も限定している。
調べてみると、元治元年(1864年)七月十九日に蛤御門の変が起きている。
(手近にある辞書には、蛤御門の変のことを次のように書いている。
「前年の八月十八日の事変で京都を追われた長州藩が、形勢挽回のため京都に兵を進め、会津薩摩藩などの兵と蛤御門付近で交戦して敗れた事件」)
要するに、『花ちりぬ』は物騒な事件が起きる直前のお茶屋の様子を描いているわけで、
実際、芸妓たちも、長州の兵隊が大勢、京都に向かっているらしい、というような噂話を何度かしている。
とはいえ、映画の前半で描かれるお茶屋の中は、外の世界とはちがって、のんびりしたものだ。
お茶屋に遊びに来る客はいるし、仕事の合間に芸妓たちは花火などで遊んでいる。
お茶屋内の事件といえば、ひとの客を取った取らないといった、いつの世にもありそうなもめごとくらいだ。


そんなお茶屋に緊張感が走るのは、お茶屋の主人の娘・花井蘭子が出かけようとしたときだ。
ふいに外から騒々しい物音が聞こえてくるのである。
芸妓たちは廊下や座敷を駆けぬけて、音のする方へと向かい、窓から外を見つめる。
どうやら京に潜伏していた長州藩士と新撰組が争っているらしい。
戸の前にいる花井蘭子たちもその場に突っ立ったまま、外の物音に意識を集中させている。
物音がとだえ、乱闘がどうなったかが分からなくなってしまったそのとき、突然、誰かが戸を激しく叩く。
花井蘭子は思わず戸を開けようとするが、周囲にいた女たちによって引き離される。
戸のすぐ向こうで乱闘がまた起き、誰かが斬られたらしい。それでも何とか逃げようとしているようで、うめき声が遠ざかっていく。
また、静かな夜が戻ってきたとき、花井蘭子は無言で座っている。
このときのカットの積み重ねがちょっと普通ではない。
田坂具隆も時間の感覚が特殊であったけれど、石田民三もかなり特殊だ。シーンの終わりというか芝居の余韻を撮りだすと、時間がどんどん伸びていくのである)
バストショット、横顔のアップと来て、最後に正面からの顔のアップが映る。これらのカットの中で(特に3カット目の中で)、花井蘭子の目に今にもこぼれ落ちそうなくらい涙がたまっていくのをカメラはじっと凝視し続けるのだ。
一年前、花井蘭子はお茶屋に遊びに来ていた長州藩士と恋に落ちていた。
さっき戸を叩いたひとはあのひとだったかもしれないのだ……、と花井蘭子は思っているのである。


翌日、花井蘭子は、昨夜斬られた長州藩士の死体があるところまで行き、役人に年や姿を尋ねるが、
どうやら彼女が恋している相手ではなかった。
けれども、あのひとはひょっとしたら別の場所で危ない目にあっているかもしれない……。
そう思っているところに、また事件が起きる。
新撰組がやって来て、お茶屋の主である花井蘭子の母(三條利喜江)に、今すぐ出頭せよ、と命じたのである。
芸妓からその話を聞いた花井蘭子はあわてて母の部屋に行く。
新撰組長州藩士と関係のある自分のことを疑っているのだ。だから、わたしが行きます、と花井蘭子は言う。
そしてさらに、どうして皆で長州藩をいじめるのか。あの人たちは天子様のために戦っているのに、と言葉を続ける。
そんな娘に母の三條利喜江は、お黙り!とぴしゃりと言う。
長州のことなどどうでもいい。お茶屋は商売のことだけ考えていればいいのだ。とにかく新撰組のところには主であるわたしが行きますから。
とはいえ、三條利喜江は廊下を歩きかけたところでふと立ち止まり、また花井蘭子のもとへ戻ってこう言うのだが。
長州の兵が京に迫ってきているそうだから、危ないと感じたら、皆を連れて遠くへお逃げ。


このあたりの展開を、公開当時、人々はどのように見たのだろうか。
新撰組は三條利喜江にも誰にも出頭を命じる理由を説明していないようだ。
理由を訊いても答えてくれなかったのだろうか。それとも理由を尋ねてはいけないような威圧感が新撰組にあったということなのだろうか。
新撰組の姿が画面から排除されているぶん、逆に不吉な空気が映画にただよっている。
何だか特高というか、戦前・戦中の警察のようではないか、と私は見ていて思ったのだが、当時のひとたちはどう思ったのだろう。
やはり、似たようなことを感じて、恐いと思ったのだろうか。
それとも、長州藩=勤王派ということで、そんな映画の見方などしなかったのだろうか。
ちょっと気になるところだ。


花井蘭子は祖母の代から続くお茶屋の主人になることを嫌がっていた。
狭い廓の世界から飛び出したいという彼女の気持ちに火をつけたのが、一年前に出会った長州藩士であった。
映画の前半、花井蘭子は一年前にもらったたった一通の恋文を読み返しながら、あのひとと一緒に外の世界へ出て行きたい、と強く願っている。
だが、あれほど嫌っていたお茶屋に危機が訪れたとたん、彼女はうろたえてしまうのである。
花井蘭子は胸のうちで不安が大きくなっていくのに耐えきれず、
ふいに自室を飛び出すと、階段を駆け上がり(このときの駆け上がる姿の軽やかさが見ていて実に痛々しい)、物干し台からあたりを見回す。
母の姿を探しているのか、それとも長州藩士のあのひとの姿を探しているのか。
だが、眼下に広がる京都の街並みは不思議なくらい静かで、そのことがいよいよ彼女を不安にさせる。
彼女は自室に戻ると、何とか落ち着こうとして三味線を弾きはじめるのだが、
こういうときに三味線を弾いてしまうというのが、いかにもお茶屋で生まれ育った者らしい行動パターンだ。
そういえば、花井蘭子の部屋のすみには回り灯籠がつるされていて、こんな緊急事態であるにもかかわらず、くるくると回りながら影絵を映していたのであった。
どんなに嫌悪していても、彼女はお茶屋の中でしか生きられない人間なのだろう。
そういう花井蘭子の宿命を石田民三はさりげなくではあるけれど、きちんと印象に残るように描いている。


そうこうしているうちに、蛤御門の変が起きる七月十九日がどんどん迫ってきて、映画はラストシーンに向けて急速に動きだす。
遠くからではあるけれど、砲声が聞こえてきて、花井蘭子は芸妓たちを避難させることを決意する。
このとき、早く逃げるように呼びかける彼女の口調が、どこか母の三條利喜江に似てくるのが印象的だ。


花井蘭子は一人だけお茶屋に残り、母が戻ってくるのを待つことにする。
するとそのとき、店の裏で物音がする。
行ってみると、女が一人、井戸の釣瓶桶にじかに口をつけて水を飲んでいる。
その女は江戸から流れてきた種八という芸妓であった。
そうだ、少し回り道になるが、水上怜子という女優が演じる種八についても記しておこう。
(『花ちりぬ』には、印象に残る女優が何人もいて、水上怜子もその一人だ。
調べてみると、彼女は山田洋次の『二階の他人』や前田陽一の『ちんころ海女っこ』にも出演している。
どちらも見ているはずなのに、どんな役だったかさっぱり思い出せないのは、私の記憶力が悪いせいか。
それとも、石田民三の女優演出がそれだけすばらしかったということなのか)
新撰組お茶屋にやって来たちょうどそのとき、水上怜子の身にも事件が起きていた。
店の裏にやって来た彼女はそこに誰かがいるのを見つけ、相手をじっと見つめたまま、ゆっくりと歩み寄る。
だが、急に立ち止まると、すとんと腰を落とし、相手から目をそらして釣瓶桶からしたたり落ちる水滴を眺めてしまうのである。
(このときの、ぽたぽたしたたり落ちる水滴をとらえたカットが、やはり長い。石田民三の癖なのだろうか)
彼女は前に、悪い男に食い物にされていたこと、二度逃げたのだけれど、二度とも男につかまって連れ戻されてしまった(今が三度目の逃亡)ことなどを他の芸妓に語っていた。
おそらく、店の裏にひっそりたたずんでいたのは、その悪い男なのだろう。


お茶屋に戻ってきた水上怜子は花井蘭子に告げる。
京の街ももうお終いでしょうよ。屋敷に火がつけられ、囚人たちは牢から抜け出して暴れている……。
そして、花井蘭子のなぜ逃げないのかという問にこう答える。
逃げてきたんですよ、男から。でもね、本当に逃げきるには、あいつが死ぬか、あたしが死ぬかどっちかしかない。だから、あたしはここで死ぬことに決めたんです……。
そこまで言うと、水上怜子は廊下に突っ伏し、それきり動こうとしない。
花井蘭子はあたりを見回す。
それから、がらんと広いお茶屋の中をゆっくりと歩き、物干し台に上がる。
彼女は恋文を取り出して読もうとするが、恋文は手からすべり落ちてしまう。
だが、彼女は恋文を拾おうともしない。
ただ、遠くで燃えさかる炎を呆然と見つめるばかりだ……。


このラストには、ただもう、ううむ……とうなるしかなかった。
そして、ビデオを巻き戻して、もう一度、『花ちりぬ』を最初から見たのだけれど、
二度目にラストを見たとき、この花井蘭子とよく似た姿をずいぶん前に映画で見たことがあるな、と私は思った。
1954年に製作された『ゴジラ』がそれだ。
ゴジラによって破壊される街を呆然と見つめる人々の姿が、あまりにも『花ちりぬ』の花井蘭子と似ているのである。
『花ちりぬ』の花井蘭子がラストで見ているものは、世界が滅んでいく光景と言ってもいいくらいだ。


それにしても、『ゴジラ』は空襲体験を生々しく再現しているような映画であったが、
『花ちりぬ』が製作されたのは、1938年。戦前のことだ。
これはもう、「予感の映画」と言ってもいいのではないか。
『花ちりぬ』は、そういう意味で恐いところのある映画だ。
そして、この映画を監督した石田民三も、私には、ちょっと恐い才能の持ち主のように思えてならない。
だが、と言うか、だからこそ、と言うか、ますます、どういう監督だったのか知りたくなってきた。
誰か、きちんと石田民三について研究してくれないだろうか。