渡辺護、『修道女 秘め事』、『猟奇薔薇奴隷』などについて語る


(以下のインタビューは、井川がmixiに書いた製作日記からのものです)


製作日記:70年代後半の向井寛とのつきあい・前編(2012年8月4日)


『ドキュメント 成人映画』(ミリオン出版・1978年)には、何人かのピンク映画監督のインタビュー記事が載っていて、その中に向井寛のものもある(p134〜p136)。
出だしをちょっと引用しておこう。


いまは監督が副業でプロデューサーが本業の様相である。
東映ニューポルノのプロデューサーであり、『むれむれ夫人』(飛鳥裕子主演)を手がけたり、そうかと思うと、東映セントラルフィルムで、ハリー・リームズ主演の『生贄の女たち』(山本晋也監督)をプロデュースしたり。年間10本以上の東映ポルノの製作を抱えていては、とても監督なんぞやってられない。
「監督の才能はもう枯れ果てましたよ。監督よりプロデューサーの方が向いているし、やりがいがありますね。これまで日本には本当のプロデューサーは数少なかった。みんなサラリーマンプロデューサーでね。いい企画で血の通った映画を作りたいですね。できるなら、日本の映画の流れをかえてみたいですね」
 話が多少オーバーで、誇大なきらいがあるけれど、そうかと言って話半分ということじゃない。東映洋画部の創設期は『世界トルコテクニック・ドキュメンタリー』を作り大活躍したし、東映本社の宣伝部に行くと、社員と見違えるばかりにいつもデスクに座っていた。
 そして東映で『東京ディープスロート夫人』を演出したり、『噫・活弁大写真』の構成、監修を稲垣浩と組んでやったりするのである。才人であり、タフでエネルギッシュである。
 ある時期は、「メガホンを片手に、ソロバンを片手にやっているのが向井寛だ」といわれた時代がある。向井商法、いや、いまや向井映画商事株式会社のおもむきである。
 かつては若松孝二の好ライバルとしてピンク映画隆盛の一時期をつくった。
 いまユニバースプロモーションの代表だ。山本晋也渡辺護、稲尾実、梅沢薫らに東映ポルノを撮らせている。


この時期の向井寛について渡辺護は次のように語っている。


山本晋也が『下落合焼き鳥ムービー』(79)をやるなんてことがあった頃だよね。その前後ですよ。(向井寛に)おれと山本晋也が呼ばれたんですよ。「ナベちゃん、何だろうね?」って、一緒に喫茶店に行った。そうしたら、会食の場所を用意してあるって。
あれはね、沖縄料理の店があるんですよ。そこでパーンとコースで接待されて、(頭を下げるジェスチャー)「年間2本撮ってくれ。ナベさんたちにどうしてもやってほしい」と。向井が東映でピンクの製作をやるにあたって、「渡辺護山本晋也に撮らせてくれ」と東映から注文があったそうですよ。
それは渡辺プロが東映と直接仕事できないようにする手でもあるわけだよ。山本晋也は製作やんないからね。向井はそこいらへんのとこは政治家なんですよ。それで(向井寛製作で)東映ピンクをやったわけですよ。
あとで、向井寛が言うんだよ。ナベちゃん、悪いけど、渡辺護じゃなくて……、って。向井寛の映画がなくちゃいけないんですよ、東映の作品の中にね。でも、あいつは自分じゃやる気がしない、製作だけやりたいから。それでおれは要するに……、あの、事実だけを話すようにしますよ。「ナベちゃん、とにかく、おれの名前で撮ってくれないか。ギャラ、アップする」と。で、金がね……金に弱いわけじゃないけど……いや、金に弱いわけだけど、早く言えば演出料が15万だったら、18万にするってことあるよね。向井は「倍にする」って言うんだよ、演出料をね。「本当?」って言って、引き受けた。それで(向井寛名義で)撮ったのが、『修道女 秘め事』(78)。
それでどんなふうに撮ったかというと、単に向井寛の名前でやるってことじゃなくて、向井寛の演出でやると。で、(撮影の)鈴木史郎と打ち合わせして、「向井ならどう撮ると思う?」なんて。向井ははったりかけてやるからさ、それでね、修道女の映画だろ? 館山で撮ったんだけど、畑仕事なんかやりながらさ、ミレーの晩鐘みたいな画をつくって、「これ、向井流だよなあ」なんつってやってたんだよ。そうやって、はったりのカットばっかり撮っていったんだよ。坂の上からさ、落下するとかね、杉佳代子が修道院の院長みたいな役で、彼女だけ白で、あとは全部黒でやったりしたんだけど。
主役は日野繭子で、十字架が首にかけてあって、それをバアーッとはずして捨てる芝居なんか、向井寛だったらさ――おれはそんな芝居させないけど――、なんとかかんとか!って叫んで、(十字架を)パッと印象的に叩きつけて、すうっと服を脱いでいく、と。向井流に撮ったんだよ。
で、なんかやってるうちに演出がこう、こみいってきて、いろいろ注文してるうちに、「何やってんだ、繭子!」なんて言っているうちに、「あれ? やっぱりちがうかなあ。鈴木ちゃんよ、これ、やぱり渡辺護演出になっちゃったなあ」って言ったら、鈴木史郎、おれの顔見て、「あったり前でしょ」。あれだけは笑っちゃったなあ。
それが評判よかったんだよね。「修道女の映画、あるでしょ? あれ、ナベさん、評判いいですよ」って、向井寛の弟が言うんだよ。「いや、あれ、もう知ってるひとは知っていますよ。あれはナベさんだって。いや、やっぱり、いいねって言ってますよ」って言うから、「……ああ、そう」って答えたよ。
そうしたら、向井がね、「どうもありがとう」って。おれも「向井ちゃんの名前でやったから、失敗できねえよなあ。向井寛の名前があるからさあ。それを傷つけちゃいけないから、骨折っちゃったよお」てなこと言ったんだよ。そうしたらさ、「ナベさん、ひとの名前だからどうでもいいってやつもいたからね」って言うんだよ。その前に(向井寛名義で)撮ったやつがいるんだよ(笑)。それがさあ、おれの映画じゃないから、手ぬいて撮ったって。
「ナベちゃん、どうもありがとう」って言ってたけど、感謝してねえよな、あいつは。ギャラは倍だと思ってるから力はいるよなあ。そりゃ、正直なところ。そうしたら、「いや、悪い。ナベさん、いろいろあってさ……」。5万円削られたかな。半端になっちゃった。そういうとこが汚いんだよ、あいつ。向井ちゃんの話は、大体そんなとこよ。


――(渡辺護の作品リストを見せながら)ユニバースプロってとこで撮ったのが、全部、向井寛のとこで撮ったことになるんですか? ここに書いてある『猟奇薔薇奴隷』(77)ってやつがシナリオが使えなかったやつですか?


これがまた、大変だったんだ。向井には金ものすごく請求していいよなあ。いや、おれは「金をことを言うと汚い」って親父に言われてたから、江戸っ子だからカッコつけてたけど、ずいぶん損してるね、おれ。



製作日記:70年代後半の向井寛とのつきあい・後編(2012年8月5日)


阿部桂一さんって脚本家ね、おれのホンを書くときは新井啓ってなってるけど、テレビでものすごく売れっ子のライターだったんだよ。五社英雄と組んで『トップ屋』(60)とか、『宮本武蔵』(61)とか、それから、『むしけら』(60)だったかな、芸術祭大賞を取ったライターだったんだけど、忙しいときから、おれはよく知ってるんですよ。
おれは前にも言ったけど、いろんなシナリオライターと交流があったんでね。阿部桂一さんとか、石森史郎とか、みんなピンク書くようになったのは、おれの紹介なんだよな。若ちゃんや向井寛、西原(儀一)さんも使ったりしたけど、みんな、おれの関係でピンクのホンを書いてるんですよ。
阿部桂一さんにしてみると、もう一応お年をめしてきて、隠居仕事として、テレビのホンよりピンクのホンの方がずっと面白いって言って書いてくれた。テレビで注文つけられるのよりずっと楽だってね。できたホンがいいホン、わるいホンってことじゃなくて、一本の映画にできるホンを書いてくるわけ。きちんと書いてくれるひとで、腕はたしかなんですよ。
おれとは非情に懇意でやってたんだけど、『猟奇薔薇奴隷』(77)くらいのときは、おれのホンを書いてたのはガイラなんかになってたかな……(注:この頃は主に高橋伴明が書いていた)、阿部さんに注文しなくなってきてるんですよ。阿部さんは向井寛の専属みたいになっていた。
阿部さんと喫茶店で打ち合わせするとね、若いやつがやってくるんだ。「誰? あのでっかいの」と訊いたら、「おれの息子だ」ってね。おこづかいをもらいにきてたのかな、阿部さんは長男をすごいかわいがってたんですよ。
それがラグビーやってたんですよ、早稲田でね。ところがねえ、ラグビーでケガして植物人間になっちゃったんですよ。で、病院にはいって金がかかって、妹さんが女子大やめて働くようになって、奥さんも働くようになって……っていうところまで行っちゃったらしいんだよ。
息子が植物人間になっちゃったわけだから、もうショックなわけだよなあ。そりゃそうだよ、阿部さん、ホン書くどころじゃないですよ。それなのに、(向井寛は)阿部さんに(『猟奇薔薇奴隷』の)ホン書かしてるわけだよ。で、阿部さんが書いてきたホン、とっときゃよかったけど、もうメチャクチャよ。脚本になってないんだよ。
だから、おれ、向井に言ったんだよ。「もう、これ、阿部さんに書かすのは無理だよ。この仕事はダメだよ」。そうしたら、向井が「いや、ナベさん、スケジュールはいっちゃってるし、それと、ナベさん、こういうときだからこそね、阿部さん、ホン書いて仕事しなきゃダメだ。やらすんだ。やらせないとダメなんだ」。でも、おれはとってもこれ以上、ホンの注文はできないと。そういう状況で撮ったやつです。
そのときの助監督が原一男だよ。あいつがチーフで、「おい、ちょっと原、お前書けるか」みたいなこと言って、大体ストーリーを話して書かしたら、「できました!」って持ってきたけど、全然ホンになってないんだよ。「何やってんだ、お前。脚本になってないじゃないか」「いや、監督の言うとおりに書きましたよ」って言うから、あいつ、脚本知らないんだな(笑)。行き行きて神軍だから、全然ちがう次元の人間なんだよ。それで笑っちゃったんだけど。
で、「よし、分かった!」って、ストーリーをざーっと(自分で書くことにした)。売春宿にしちゃったんだよ、館山の旅館を。で、おれはそれを頭に入れて、『輪舞』じゃないけど、いろんな話つっこんじゃってかまわないような話にしちゃったわけだよ。いろんな売春の過去を思い起こして回想で進んでいくって、とにかくね、そういうことにして、頭の中で構成たてて、一晩で書くと。
それで実景とか撮れるとこあるよね。初日はパッとそれだけ撮って、「今日は休み!」。で、一晩で書くから、明日からの脚本、一晩で書くから、と。で、休みにしたんだ。「なあ、みんな、酒飲んで寝てくれ。明日から大変だから」って言ってるとこに……、おい、なんか知らないけど、山本晋也が館山まで来たんだよ。「ナベちゃん、がんばってるー?」って。あいつ、いいときもあるけど、余計なときに来て、そうしたら脚本かけなくなっちゃったんだよ。余計なときにきやがったなあ、なんて思ってるのに、「あーっ、山本カントク!」なんてスタッフが言うもんだからさ、楽しくなっちゃって、わああーっと酒飲んでさ。で、脚本なんか書けないさ。さあ、まいったなあ、と思って。でも、あのとき、山本晋也、何で来たのかな? 「ナベさん、どうすんだろう?」って興味があったのかなあ。


――じゃあ、全然シナリオなしで、メモ書きだけで撮っていったんですか?


そう。(飲み会は)これにて解散ってことにして、おれひとりになったときに、もう脚本なんてもんじゃない。ここで大体こういう台詞を言わせる、ここで大体こういう台詞を言わせる……みたいなことで、その秒数だけ、あとで台詞を(書いて)入れりゃあいい。
あくる日はどうやって撮ったかというと……、砂丘だよ、『少女を縛る!』(78)のラストを撮ったあそこの場所で撮ってさ。砂丘の上を歩く男と女。で、タバコをくわえるアップ。で、また歩く。タバコを砂丘に刺して、それのアップ。そうやって撮ったんだよ。で、それに合わせて台詞を書いたんだよ、あとで。


――じゃあ、ほとんどナレーションで話が進む――


ナレーションじゃない、台詞なんだよ(笑)。タバコ吸ってふっと後ろ姿になったところで台詞がはいるみたいな。そのときさ、志賀(葉一)ちゃんがキャメラ助手だったんだよ。キャメラが岡ちゃんで、助手だったんだな。あとで言ってたよ。「あれは不思議な撮り方をしてましたね、渡辺さん」って。
で、とにかく撮ったんだよ。話の中身なんかかまやしねえよって、そういうふうにして撮ったわけよ。で、ここでベッドシーン延々とまわしちゃえって……。早く言えば、例をあげればね、女を縛りつけて、お客がうまそうなもの食ってセックスしたりするところを見せるわけよ、その女に。もう脚本なんかねえんだよ。それを延々撮って、で、お客が(縄をほどいて)女を放すんだよ。そうすっと、女は腹へってるから、ガツガツめし食って、そんでセックスしたくてバンバンやって、ベッドシーンばっかりバーンと撮ったんだよ。それで「フィルムどれくらいまわった?」「何本まわりました」「あと10本かあ」みたいな話だよ。で、そんな感じで撮っちゃったんだよ。
映画のストーリーはアタマからケツまで一本通ったものがないんだよ。一つ一つのエピソードを映画にして……。でも、一番最後に決めたのは、女が「わたしを抱いて」って、赤いパンティだけの女と男が抱き合って。で、その女がいい女なんだよ。ひとを憎んで殺した男がいるんだけど、砂丘でそいつを抱いてやるとさ、マリアさまの像が映ってエンドマーク、ってやったんだけど、おれだって分かんないよ、何のためにそうやってんのか。こうやりゃ、画的にいいだろうってことだけで。いい女だからマリアさまだろうって……、だから、きちがい映画なんだよ。
そうしたら、それがさ、分かんないって言うんだよ。向井がさ、「東映が分かんないって言うんだよね、ちょっとナベちゃん、おれにつきあってくれる?」って。それ、向井と一緒に見たよ。そのときにおれが言った台詞がすごいよ。「この映画、分かるわけないよ。おれだって分かんないんだから」。えーッ! あのときの向井の「えーッ!」って顔、忘れられないな。でも、やっぱり監督同士だよな。見終わったら、(親指を突き出して)「グー! ナベさん、(東映には)文句言わせないよ」。握手したよ。
で、商売になったんだよ。それは。そりゃ、映像的にはったりかけて、それこそ向井の演出だよ、早くいやあ。「こんなもん、鼻毛抜きながらでも撮れるんだよ、向井ちゃん」なんて言ったけど、本当はそうじゃない。帰りのときはマイクロバスの中で胃痙攣おこしちゃったよ。(胃のあたりをおさえて)ああ、終わった、って感じで帰ってきたんだよ。殺されるとこだったよ。
ありゃ、カンだなあ、現場の。トンビが飛んでたから、「あのトンビ撮っといて」。で、女がぱあっと見上げて、それでその場で芝居をいろいろ組んで。女がふらふらあっと砂丘歩いて、画的には実にいい画を、向井好みの画をね。そうしたら、(向井が)「見事なもんだよ。(東映には)文句言わせないよ」。
で、ヒットしちゃったんだよ。ヒットしたから続編をつくってくれと言われちゃったんだよ。続編があるはずですよ。


――(作品リストを見せて)ここに『猟奇責め化粧』(77)ってありますね。


いや、そうじゃないなあ。猟奇ってついてるの、他にもある?


井川:あと、ここにもありますね。『猟奇薔薇地獄』(79)。


ちがうなあ。……「猟奇薔薇屋敷」だよ、たしか。


――「猟奇薔薇屋敷」ってのはリストにないですね。『猟奇薔薇奴隷』の翌年に撮っているのが、『猟奇責め化粧』です(注:『猟奇薔薇奴隷』は77年1月公開なので、76年に撮影していると思われる)。


『猟奇薔薇地獄』は?


――『猟奇薔薇奴隷』公開の二年後に撮ってます。


「猟奇薔薇屋敷」じゃないのか。じゃあ、「猟奇薔薇屋敷」ってどんな映画なんだろね? ……もう疲れちゃったよ。これで分かったろ、向井寛ってどんな人間か。



製作日記:向井寛についての話・補足(2012年8月6日)


渡辺さんの話はよく脱線する。脱線したまま、本筋に戻らないことがある。
直接、話を聞いているときにはそれでもかまわないのだけれども、ドキュメンタリーとして見せるとなると、かなり問題だ。
見る人に話の流れが分かるように、整理しないといけない。
しかし、整理しすぎると、渡辺さんの語りの面白さが失われてしまうので、これまた注意が必要だ。


実を言うと、三回に分けて、ここに載せた向井寛についての話も脱線部分を端折っている。
そこで、補足として話の断片をいくつか載せておきたい。


1.『蛇と女奴隷』について


監督・向井寛、脚本・大和屋竺の『蛇と女奴隷』についての話は以下のとおり。


――向井寛が『蛇と女奴隷』(76)を撮りますよね。あのとき、主役やらないかって話があったってことでしたが。


(向井が)主役やんないかって言ってきたんだよ。主役って、そんなことできるかって。山下洵一郎がやった役だよ。読んだときはいいホンでねえ。あれ出なくてよかったよ。


――大和屋さんが『蛇と女奴隷』のシナリオを書いてますよね。シナリオ集をつくるときに、『蛇と女奴隷』を探したんだけど、もうバラバラで部分しか残ってなくて、完全なのがないんですよ。シナリオ直して撮ったらしくて、完全なのがないんです。


シナリオ直して撮ったっていうよりねえ、(完成した映画を)見たらねえ……、向井ちゃん、何考えてんだろう? あれだけの脚本書いてもらってだね、なんでね……。
おれはね、向井ちゃんがおかしいと思ったのはね、クラブのママが主演の……(『おんな6丁目 蜜の味』(82))、一般映画ですよね。上原謙が出たんですから。で、そういうチャンスがあるときにね、東映の監督たちがさ、顔色を変えるくらいの映画をなんで撮らないんだ、と。おれは思ったんですよ、本当のこと。だから、話にならない。鈴木史郎がまわしてるんだけどね、話にならない映画ですよ。(このあと、映画界の裏事情が語られるのだが、カットする)


――『蛇と女奴隷』のシナリオは覚えてますか?


いやあ、覚えてるかって、覚えてないけど……、いいホンだったですよ。ところが結局、権力があって、それに反逆するっていう、これまたずいぶんと古めかしい話で全部向井流で直しちゃってるんだけど、映画になったら、もう大和屋竺の脚本ではまるでなくなってたよ。画はすごいですよ、(撮影の)鈴木史郎が凝って。だけど、話はみんな、大和屋の話がすっとんじゃってるもんね。
いやあ、あの脚本、とっときたかったよ。おれが自分でそのまま撮ってもね、向井寛とはちがうものになってたと思う。パクリでもなんでもない、むしろ大和屋の作品としておれは撮りたかったですよ。惜しいですよ。いいホンだったですよ。
大和屋ちゃん、よく怒らなかったなあって。大和屋ちゃん、あれだけ優秀なホン書いて、パッパッあんなふうに撮られて腹立たなかったかなあ。おれは『夜のひとで』のとき、大和屋に「ナベさん、甘い」って言われたけどね。おれは甘いんだよ。甘い男だからさ、大和屋さんみたいに女に冷酷じゃないからよお、ってなもんだよ。『裏切りの季節』で女を吊るしてさ、いじめにいじめぬいてるけどさ、大和屋は。おれ、できないよ。緊縛もの、撮ってるけどさ、あれ、商売だもん。


2.『男女和合術』の頃


以下の話は、渡辺さんが『男女和合術』(72)を撮った頃の話。


国映で撮るってなったときに、お正月作品を撮るってことになったときに、そのときに笑っちゃう話があってね。
向井ちゃんが(国映の事務所に)来て、「一本撮らしてくれ」と。向井ちゃん、そのとき、おれから比べると、落ちてるときだったんですよ。そうしたら、専務が「いや、ナベさんに頼んでるから、予定がない」って言ったら、ぱあって涙流してね、「長いつきあいで、さみしいよ、それは」って向井が泣いたって言うんだよね。
「それ見るとさ、ナベちゃん、悪いけど、(正月作品を)向井に譲ってくれない? この次、ナベさんにやってもらうから」。国映の専務がそう言うもんだから、おれが怒っちゃうよなあ。やるって言って、スタッフが待機してるものを、そういうことだから、ダメになっちゃったって、おれはいえない性格なんだよ。
「よし、分かった」って言って、そのとき、おれ、強かったから、大蔵の常務に「今日、ムーランルージュで、キャバレーで、パアッといきますか」っつたら、「ああ、そう。いいの?」なんつって。「そのかわり、これ、頼むわ」(脚本を渡すジェスチャー)って言ったら、「ああ、いいよ。撮って」。(大蔵の常務は)脚本も読まないうちからOKして、で、撮りましたよ。それが、『男女和合術』。これがねえ、いいんだよ。『夜のひとで』(のリメイクみたいなもの)なんだよ。のって撮ったっすよ、鈴木史郎が。
そうしたら、どうなったかって……、向井寛がさ、ちっとも準備もしないし、脚本も提出しないってわけですよ。お金だけ持って、製作に入らないっていうんだな。(国映の専務が)「間に合わないから、ナベさん、あれ撮ってくんないかな」って言うから、「ダメだよ、あれ、大蔵で入ることになっちゃったんだから」「えーッ! もう大蔵で決まっちゃったの?」「決まったよ。そりゃ、スタッフ用意してんだもん」「えーッ!」ってことがあったんですよ。
そのあとは、(国映の)お姉も知ってるよ。喫茶店で向井と話してたんですよ。そうしたら、「ナベちゃん、しゃがんで!」。窓際でお茶を飲んでたら、急に「ナベちゃん、しゃがんで!」。何でしゃがむんだよ。分かんねえけど、しゃがんだら、そうしたら、その前、すーっと国映の専務が通ってくんだよ。向井を探し歩いてんですよ、専務が(笑)。
よく、まあ、向井ちゃんって生き抜いてきたよねえ。図太いっていうかさあ……。


――結局、向井寛は撮ったんですか?


いや、国映では撮ったんですよ。どんなものかは知らないけど。全然無視だよ、その頃は。向井と話をしても、「ナベちゃん、うちで撮ってくれる?」みたいな話だったからね。


注:このとき、向井寛が撮った作品は何だったのか? 『月刊成人映画』第72号(1972年新春特別号)を開いてみると、巻頭特集が「渡辺護監督「エロ事師」でポルノへ果たし状 話題の新作『男女和合術』下田ロケ・ルポ」となっている(p3〜p7)。さらに見ていくと、新作紹介欄のp11に『好色エロ坊主』(監督=宗豊、国映配給)とある。向井寛が撮った作品はこれだと思われる。