高橋洋『霊的ボリシェヴィキ』について(井川耕一郎)

試写で見てから時間がたってしまったけれども、高橋洋霊的ボリシェヴィキ』の感想をメモしておこうかと(ネタバレにならないように注意しながら)。


廃工場のがらんと広い空間に五人の男女が輪になって座っている(あとから遅れて二人やって来て七人になるのだが)。
これからここで降霊会が開かれるのかな、と思って見ていると、三田という男(伊藤洋三郎)が口を開く。
あれは幽霊だったかもしれないという経験は二、三していますが、自分にとって本当に恐ろしかった経験は他にあります、というような前置きしてから、三田が語りだしたのは、刑務官だった頃に出会ったある死刑囚のことだった。
あれ?と思ったのは、その話にいわゆる心霊的な要素がないことだ。
では、結局一番恐いのは人間だという話として受け止めればいいのかというと、どうやらこの集まりの主宰者・浅野(高木公佑)と宮路(長宗我部陽子)はそういう人間中心的な解釈を誤りであると禁じているらしい。


二番目の語り手は長尾という女性(南谷朝子)で、こちらの話には幽霊らしきものが出てくる。
けれども、この話にもひっかかるところがある。彼女が語ったのは自分が見た夢なのだ。しかも、夢の話だけでおしまいで、幽霊が語ったとおりのことが現実に起きていたかどうかというような確認がない。
霊的ボリシェヴィキ』はこの時点で、私たちがホラー映画に何となく期待するものからずれてしまっている。というより、そういう期待を確信犯的にふみにじって別の方向へと進もうとしている。
ところで、三田と長尾の話を聞いた時点で気になったのは、語り終えたあとの二人の態度だ。
三田は死刑囚から感じた恐さをうまく言葉にできないもどかしさを感じているようだし、長尾も、あんな恐い夢は初めてでした、と余計な付け足しをしている。彼女は夢の中で感じた恐怖が最高度のものだということがきちんと伝わったのかどうか心配みたいなのだ。
たぶん、三田も長尾も話をすることに失敗したと内心思っているのだろう。けれども、宮路と浅野は、霊気は集まっている、と言っている。
これは一体どういうことなのだろう?


三番目の宮路の話は、子どもの頃、山で遭遇した「見てはいけないもの」についてで、その晩、高熱を出した彼女は霊が見える体質になったという。
何を見たのですか?という由起子(韓英恵)の問いに、宮路は、説明したくないし、できない、と答えるのだが、浅野は、宮路が見たものに一番近いものはこれだそうです、と言って、由起子たち参加者にある画像を見せる。
その画像は有名なものだけれども、今となっては笑うしかない冗談みたいなものだ。しかし、宮路は、姿、形は違うけれども、感覚はとても近い、と言う。
ここまで来てようやく、廃工場での会合が問題にしているものが、ぼんやりとではあるけれど、見えてくる。それは、表現するのが難しい恐怖、というより、表現を拒む恐怖があるということのようだ。
そんな恐怖があるとしたら、それについて語ることは当然、失敗するしかないだろう。けれども、高橋洋は三田、長尾、宮路の失敗を通して、表現を拒む恐怖があることを指し示そうとしていたのではないだろうか。


霊的ボリシェヴィキ』を見たあと、恐怖についてとりとめない思いをめぐらせていたら、中井久夫を思い出した。
中井久夫は『サリヴァン統合失調症論』(『隣の病い』ちくま学芸文庫に収録されています)や『最終講義 分裂病私見』(みすず書房)の中で、ハリー・スタック・サリヴァンの考察を紹介しながらこう書いている。
統合失調症の始まりにおいてもっとも前景にでてくる圧倒的な体験が強烈な恐怖である」「実際、発病過程において、最後は深淵にまっさかさまに陥るような恐怖があり、それに比べれば、幻聴も妄想も何ほどのことはない、とはある患者から筆者が聞いたところである」(『サリヴァン統合失調症論』)
破局直後は「世界がいっせいにしかも一つのものも多くの言葉で叫び出した」ようなものですから、いっときに一つのことしか言えない言語というものでは何も表現できなくてふしぎではありません」「極度の恐怖は対象を持たない全体的な「恐怖そのもの」体験ですが、幻覚・妄想・知覚変容は対象化されえます」(『最終講義 分裂病私見』)
浅野・宮路の会合で探求しようとしている恐怖とは、統合失調症のひとが体験する対象化できない恐怖に近いのではないか……と。
(私たちがホラー映画に期待する幽霊・モンスター・心霊現象などは、統合失調症のひとにとっての幻聴や妄想レベルのように対象化された恐ろしいものかとも思ったけれども、どうなのだろう?)


話を映画に戻すとして、三田、長尾、そして宮路の話によって会合の場に霊気が集まったというのは、表現を拒む恐怖、対象化できない恐怖と向き合う準備が整ったということなのだろう。
だとしたら、次の段階は言葉を捨てて秘儀を行うというふうになりそうなのだけれども、高橋洋はそう簡単には言葉を放棄する展開にはしない。浅野・宮路は由起子と彼女の婚約者・安藤(巴山祐樹)に話をするように求めていくのだ(言葉をとことん酷使しようとするしつこさが『霊的ボリシェヴィキ』のユニークなところだと思う)。
浅野に促されて四番目に話すのは由起子だ。彼女は子どもの頃に神隠しにあって三ヶ月行方不明だったという。しかし、由起子に神隠しにあったときの記憶はなくて、代わりに話すのはその後のことである。
このあたりからネタバレになりそうなので、詳しいことを書くのがためらわれる。
(なので、由起子が話の途中で指でトトトッと歩くさまを示すところだとか、チラシの表にも載っている手首の曲げ方だとか、ギャグすれすれなのに、本当にぞっとするような韓英恵の手の動きの魅力についてきちんと書くことができないわけですが……)
由起子の話で注目すべきポイントは二つはあると思う。
一つ目は、神隠し後のわたしが周囲に災厄をもたらしているのではないかということ。
二つ目は、神隠しによってわたしは変質してしまったのではないか、いや、神隠し後のわたしはそれ以前のわたしと同一と言えるのだろうかということ。


三田・長尾・宮路の話は自分が遭遇した恐怖について語ろうとするものであったが、由起子の話はそれとはちがう。
恐怖は外からやって来るようなものではなく、わたしの中にある。わたしこそ恐怖なのかもしれない−−というのが由起子の話なのだろう。
だとしたら、高橋洋が表現を拒む恐怖、対象化できない恐怖があることを確認したあと、次の段階で目指したのは、恐怖そのものに語らせようということではなかったか。
そう考えると、五番目に語るのが安藤というのも納得できる。
由起子の話は、わたしは恐怖かもしれない、というものであったが、安藤の話は、わたしこそ恐怖である、というものであったからだ(ネタバレにならないように注意しているので、大ざっぱな書き方になってすみません)。
しかし、わたしこそ恐怖であるという告白で、表現を拒む恐怖、対象化できない恐怖が表現できるなんてことはありえない。
「わたしこそ恐怖である」ということで、恐怖は縮減されている。「わたしこそ」が縮減の原因で、表現を拒む恐怖、対象化できない恐怖にとっては邪魔ものなのだ。
秘儀が必要になってくるとしたらここでだろう。その秘儀とは「わたしこそ」を廃棄するものとでも言ったらいいのだろうか(これまた、ネタバレを気にして抽象的な書き方になってしまいました)。


霊的ボリシェヴィキ』で、高橋洋は表現を拒む恐怖を表現するという試みに挑戦している。
それも、表現を拒否する恐怖があることを遠回しにほのめかすような表現ではダメで、恐怖そのものと化した表現を一個の物のようにどさっと観客の目の前に放り出してみたい、と考えていたのではないか。
そりゃ、不可能な試みだよ、と批評するのは簡単なことだ。けれども、そうせずにはいられないくらい、ホラー映画をとことん究めようとする高橋洋表現者としてのあり方は素晴らしいと思う。
(『霊的ボリシェヴィキ』の試みに近いことをやったものを過去の映画から探すとなると、原作・小泉八雲、監督・小林正樹、脚本・水木洋子『怪談』になるだろう。『怪談』は「黒髪」、「雪女」、「耳無抱一」の三話できれいにまとめることもできたはずなのに、なぜ書きかけの中途半端な怪異談を紹介する「茶碗の中」を最終話として付け加えたのか。たぶん、原作がどんなにすぐれたものであっても、第三話までだと、幽霊や妖怪を描いた分だけ恐怖が縮減されていると考えたのだろう。そこで、最終話に「茶碗の中」を選ぶことで、表現そのものが恐怖になる次の段階があるはずだと示したかったのではないか)


ネタバレを気にしてだんだんとりとめない感想になってきたので、最後に「霊的ボリシェヴィキ」についてちょっと(映画の中では「霊的前衛」と言っているけれど)。
霊的ボリシェヴィキにあたるひとは、浅野、宮路と、記録係の片岡(近藤笑菜)なのだろうが、この三人が目指すものが何なのかははっきり言って分からなかった。
長尾は由起子に、浅野先生の目的はあの世を呼び出すこと、と言っているけれども、では、呼び出して何をしようというのだろう?
あの世の呼び出しに成功したとして、そのときに霊的ボリシェヴィキが遭遇するものは、宮路が子どもの頃に遭遇した「見てはいけないもの」と同じものなのかどうか?
同じだとしたら、なぜ宮路は「見てはいけないもの」をもう一度見たいと思うのか?
表現を拒むような恐怖の中に、ついに真の実在にふれた!とでもいうような強烈な感覚があったのだろうか? 宮路からその話を聞いて浅野は「霊」と「唯物論」を結びつけようと考えたのか?
……どうもよく分からない。高橋洋のハッタリを真に受けて余計なことを考えてしまったのか。
霊的ボリシェヴィキ』はプロパガンダ映画ではないのだから、劇中の霊的ボリシェヴィキの思想内容などどうでもいいのかもしれない(必要なのは、その思想の正しさを信じて行動する登場人物がいることだ)。
けれども、気になったのは、会合の場に高くかかげてあるレーニンスターリンの大きな肖像画だ。
あの二人から見た登場人物七人はどんなふうに見えたのか。マヤコフスキーみたいなやつらと思ったのではないか。
マヤコフスキーロシア革命を「ぼくの革命」と呼んで無条件に肯定したけれども、レーニンは彼の詩に対して「分からない」と言って冷淡であったようだし、スターリンは目ざわりなやつとして死へと追いやった(自殺ということになっているけれども、限りなく粛清に近い死だ)。
そんなことを思うと、宮路や浅野がボリシェヴィキ党歌を真剣に歌う姿が空しいものとして思い返されてくる。
そういえば、記録係の片岡はほとんどしゃべらず、会合をじっと見ているだけだったけれども、一体、何を思っていたのか。
劇中の霊的ボリシェヴィキたちは実はレーニンスターリンに理解されず、見離されるであろうことを確信していたのではないか、なんて考えがひょいと浮かんできたのだけれども。


霊的ボリシェヴィキ』は2月10日からユーロスペースで公開されます。
高橋洋霊的ボリシェヴィキ』公式サイト https://spiritualbolshevik.wixsite.com/bolsheviki