瀬田なつきの世界!ふしぎ!発見!(葛生賢)

正面から捉えられた一枚の世界地図。画面外から、海外へ単身赴任するらしい父親の声がその目的地を告げ、傍らにいるはずの母親と娘が、その赴任先と現在、自分たちがいる地点を結ぶ線を指でなぞってみせる。世界地図は学校の教室に掲げられているような類いの何の変哲もないものなので、つい習慣からか、登場人物たちが(そして私たちが)住んでいるはずの島国を探そうと、見るものは画面上の地図に視線を這わせるのだが、当然そこにあるはずの場所にその島国を見出すことはできない。一瞬、とまどい、方向感覚の失調をきたしながら、それでもなお今起きている事態に冷静に対処すべく、もう一度、子細に眺めてみようと試みるのだが、その間に画面はテーブルを囲む三人のショットに切り替わってしまう。彼らの前に広げられた地図をテーブルの上に認める私たちは、先ほどのショットがその地図を北と南を逆にして捉えたものだと気づく。瀬田なつきのデビュー作『とどまるかなくなるか』の中盤あたりに位置するこのショットほど、この映画作家の資質をよく表しているものはないだろう。そこにはちょっとしたユーモアがあり、習慣によって自動化された物の見方に対する挑戦があり、そして何より世界はこのようにも見ることができるという発見が驚きとともに提示されているのだ。


映画とは何か。この問いはそれを自問するものによって答えの異なる問いだろう。しかし、映画は何からできているか、という問いに対する答えは一つしかない。それは映像と音響からできているのである。このあまりにも単純明快であるがゆえに、人がしばしばそこから目を背けてしまいがちな厳然たる事実を直視することのできるものだけが映画作家になることができる。あるものはその過酷さに耐え切れずに、物語の面白さといったものに担保を求めたりするのかもしれないが、その結果生まれてくるものは映画とは名ばかりの物語の図解に過ぎない(つまりそこには運動が決定的に欠けている)。あるいは自分の頭の中にある観念を表現するには映画は不向きである。なぜなら映画は世界という本質的に私たちの言うなりにならない他者を相手にしているからだ。あくまでも映画が相手にできるのは見ることのできるものと聞くことのできるもののみである(たとえそれが目に見えないもの、耳に聞こえないものを表現することを目指す場合でも)。これを忘れるところから映画の頽廃が始まる。


瀬田なつきは何よりもまず、映画が映像と音響からできている、というこの厳然たる事実と向き合うことから出発する。そのため、彼女の映画には凝ったストーリー展開やら特殊効果を駆使した映像といった通常、映画が観客の興味を引き寄せるために使う常套手段は出て来ない。そこに映っているのは、基本的に私たちが日常生活の中で目にすることの可能なあれやこれやである。しかし(そしてここが驚くべきことなのだが)彼女の手(演出)にかかるとそうした見慣れたはずの事物が見たことのないものに変貌してしまうのだ。ついつい「魔法」という言葉でこの事態を表現してみたい誘惑に駆られないでもないのだが、しかしもしそれが「魔法」だとしても、その「魔法」は映画がもともと持っていたはずの「魔法」ではないだろうか。キャメラとマイクを通してしか、見ることや聞くことのできない、すぐそこにある世界を捉えること。それこそがその「魔法」の正体であり、凡百の映画監督たちが観念の肥大によってありもしない幻想を追いかけている時に、まるで「青い鳥」の寓話を思わせるようなさりげない身振りで、あなたたちの探していたものはすぐそこにあるじゃないのと、世界をそして映画を彼女はそっと指差してみせるのだ。彼女の演出する作品によって、視界を曇らせていた夾雑物を洗い流し、爽やかな気分とともに再び世界を新たな眼差しで見つめ直す時、私たちは映画への信頼を回復しながら、こうつぶやくだろう。映画とは(そして演出とは)世界の再発見である、と。



新作情報! 瀬田なつきの新作『あとのまつり』が「桃まつりpresents Kiss!」の一篇としてユーロスペースでレイトショー公開されます(3月19日(木)〜22日(日)・連日21:00〜)。
詳しくは以下のサイトを御覧下さい。
 桃まつりpresents Kiss!」公式サイト
  http://www.momomatsuri.com/
 桃まつりpresents Kiss!」ブログ
  http://d.hatena.ne.jp/momomatsuri/ )