2013-02-01から1ヶ月間の記事一覧

ぴんくりんく企画「ピンク映画50周年 特別上映会 〜映画監督・渡辺護の時代〜」+『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』(2月8日(金)〜2月12日(火)・神戸映画資料館)

2月8日(金)から12日(火)まで神戸映画資料館で開かれるぴんくりんく企画のピンク映画上映会。 その中で、渡辺護自伝的ドキュメンタリー第一部『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』が上映されます。 渡辺護とはどういう監督なのか? 1931年東京生まれ。6…

渡辺護とピンク映画についてもっと詳しく

以下のところに移動しました。 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130427/p2

渡辺護、『修道女 秘め事』、『猟奇薔薇奴隷』などについて語る

(以下のインタビューは、井川がmixiに書いた製作日記からのものです) 製作日記:70年代後半の向井寛とのつきあい・前編(2012年8月4日) 『ドキュメント 成人映画』(ミリオン出版・1978年)には、何人かのピンク映画監督のインタビュー記事が載っていて、…

参考資料:大和屋竺『おんな地獄唄 尺八弁天』シナリオと渡辺護による直し(シーン48〜シーン56)

(大和屋竺のシナリオ) 48 本多邸・応接間 ソファにゆったりとくつろいでいる本多。 本多「ごろつきどもとは相変らずつき合っているのか?」 「むろん」 答えた男はセイガクである。 本多「お役目とは云え、御苦労なことだ。所で君に来て貰ったのは、私の工…

『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(4)(井川耕一郎)

だらだら書いてきたこの覚え書きもそろそろ終わらせようと思う。 そこで最後の回は、渡辺護さんが撮影で使用したシナリオを手がかりに、『尺八弁天』の創作の現場にちょっとでも近づいてみたいと思う。 私たちは映画の面白さについて書くときに、ある一人の…

『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(3)(井川耕一郎)

殺意と表裏一体の愛欲について。 これは、『極悪弁天』では英二郎がになっていた。 英二郎に抱かれた加代が「苦しい……死ぬかと思った……」と言うと、彼はこう答える。「俺は人斬り英二郎と云われた男だ……あんたを殺る時は……ドスであの世に送ってやる」 『尺八…

日録1980年7月28日(渡辺護)

(このエッセイは、「日本読書新聞」1980年7月28日に掲載されたものです) 俺の映画の熱心なファンである若者たちが、今はもう劇場で上映されない古いフィルムが見たいといって来た。『少女縄化粧』や『聖処女縛り』を観て俺の名前を覚えてくれたという彼ら…

日録1980年7月21日(渡辺護)

(このエッセイは、「日本読書新聞」1980年7月21日に掲載されたものです) ×月×日 撮影最終日。言問橋から吾妻橋付近で痴漢公園のシーンだ。午後一時三〇分、体があいたのでなつかしい喫茶店に入る。すると、思い出が記憶の底からせきを切って流れ出す。ま…

日録1980年7月14日(渡辺護)

(このエッセイは、「日本読書新聞」1980年7月14日に掲載されたものです) ×月×日 新東宝のお盆映画『日本の痴漢』の撮影にインする。毎度のことであるが、新宿安田生命前七時半集合はキツイ。五日間と言う短期間で撮りあげなくてはならないのは、いつおな…

『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(2)(井川耕一郎)

渡辺護さんの話では、観客の反応を見ようと、『極悪弁天』を上映する映画館に行ったところ、向井寛と、当時、助監督だった稲尾実(深町章)がいたという。 向井寛は映画の出来に感心したらしい。稲尾実も『極悪弁天』に感動し(劇場内で拍手した)、その後、…

『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(1)(井川耕一郎)

神戸映画資料館で『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)が上映されるとのこと(2月10日16:05〜、11日15:50〜)。 ちょうどいい機会だから、ドキュメンタリー制作の過程で『尺八弁天』について分かったことを書いておこうと思う。 『おんな地獄唄 尺八弁天』に…

渡辺護、『おんな地獄唄 尺八弁天』について語る(聞書:井川耕一郎)

(このインタビューは、『ジライヤ別冊 大和屋竺』(1995)に載った「『おんな地獄唄 尺八弁天』を撮り終えたくなかった」からの抜粋です) 『おんな地獄唄 尺八弁天』は、石森史郎のホンで撮った『男ごろし 極悪弁天』の続編でね。『極悪弁天』は弁天の加代…