死なば諸共のシナリオ工程(片桐絵梨子)

ある日、西山洋市氏よりシナリオの依頼。井原西鶴著『死なば諸共の木刀』。西山氏の言葉、「時代劇のつもりで書いていいよ。片桐、こういうの得意だろ?」得意ではないが、書けますと言う。勢いだけで第一稿を完成させる。面白くないと切り捨てられる。以下のメッセージを賜る。
「原作の世界観をストレートに描いて見てください。センチメンタルな叙情に流されない艶っぽさをだしてください。それは非情で虚無的な色気だと思いますが、だからこそ色っぽいのです。
よろしく。  西山」
 涙。ひどく泣ける。そんな風にそんなことが書けたら、ちょっと凄いことになってしまうんじゃないだろうか。そんな映画が完成したら歴史的一大事になってしまうんじゃないだろうか。などと思う。
 筆が進まなくなる。『死なば諸共の木刀』を繰り返し読む。江戸に関する資料を漁る。男女が恋人・夫婦を演じ、駆け引きを行う遊びの場、遊郭・吉原が見えて来る。『死なば諸共の木刀』は、「江戸」であればこそ、「吉原」であればこその物語であると痛感する。置き換えて描けるものではない。だが一体それをどのように描けば良いのか。特に主人公の遊女とその男をどう描けば良いのかわからない。西山氏に尋ねる。その答え。「うむ。あれだな。定と吉だ。あの二人の感じ」
 「愛のコリーダ」「実録阿部定」を観る。藤竜也宮下順子を抽出する。…中略…2月14日、デート後、シナリオの仕上げ。書けたと思う。第2稿の完成。西山氏に贈る。喜ばれる。嬉しさに、物云わず杯に口づけす。


以下告知
 江戸の遊郭・吉原で、惚れてはいけないという暗黙のルールの下に男女の遊びが繰り広げられる。胸の痛むような痛快時代劇。センチメンタルな叙情に流されない艶っぽさ、非情で虚無的な色気を湛えた映画が、9月3日、美学校映画祭で上映されます。『死なば諸共』という名前です。その歴史的瞬間に、皆様とご一緒できますように。腰の刀は片桐が、お預かりいたします。