プロジェクトINAZUMA 1st harvest

6月2日(土)から15日(金)までシネマアートン下北沢で、
『INAZUMA 稲妻』(西山洋市)、『赤猫』(大工原正樹)、『みつかるまで』(常本琢招)、『寝耳に水』(井川耕一郎)の四本がレイトショー公開されます(20:30開映)。
上映に関する詳しい情報はプロジェクトINAZUMA公式サイトをどうぞ。


<パンフレットより>


西山洋市
『INAZUMA 稲妻』『赤猫』『みつかるまで』『寝耳に水』……この4本の映画は、オムニバス映画でもシリーズ物として企画された作品でもない。かつて(おおむね1980年代)それぞれに自主製作映画を撮ることで映画作りにかかわり始めた4人の監督たちが、その後、それぞれに低予算の映画やビデオ映画やテレビドラマなどの演出や脚本の仕事を経て、たまたま映画美学校という場で(講師として)再び自主製作映画のように映画を撮る機会が与えられたときに、それぞれに自由に選んだ題材であり(製作年度も違う)、それぞれの監督たちがそれぞれの資質に従って自由に撮った映画である。
 だが、バラバラに撮られたこの4本の映画には、それぞれのドラマの核心で「ある痛み」を描いているという不思議な共通点があった。それは、4人の監督たちが自主製作映画から出発し、やがて仕事として映画を作り、今日に至る人生と無関係ではないだろう。


井川耕一郎
 ローアングルの小津安二郎長回し溝口健二、移動大好きと言われた伊藤大輔といったふうに、一般に映画監督はカメラワークなどの特徴と結びつけて記憶されてきた。けれども、そうした特徴は監督するという作業の本質を言い当てているものなのだろうか。
 私たちの中でもっとも大胆にテクニックを駆使する常本琢招は「リハーサルで実際に芝居を見ないことにはカット割りはできない」と言っている。また、西山洋市映画美学校研究科の募集要項に次のように書いている。「『カメラ=万年筆』という映画理論があるが、カメラは本当に万年筆だったのだろうか? むしろカメラを向けた先にある出来事(アクション)こそが万年筆にあたるのではないか? つまり、芝居によって立ち上げられる出来事(アクション)こそが映画の言葉として思想を表現しているのではないか? カメラも、そして編集も、芝居に従って自動的に、あるいは自然に決定される」。
 このパンフレットの巻頭言に西山は「演技の演出には、新しい映画に繋がる大きな可能性が秘められているのではないか」と書いている。これは間違いなく私たちの基本姿勢だろう。けれども、新しい映画を目指すために、私たちはまず自分がどのように演出しているのかを観察しなくてはいけない。私たちは演出家としての自分をまだよくは知らないのだ。チラシに高橋洋は「プロジェクトINAZUMAとは科学なのだ」と書いているが、要するに、私たちは昆虫学者であると同時に昆虫でもあるという実に厄介な立場にある。