渡辺護、『おんな地獄唄 尺八弁天』について語る(聞書:井川耕一郎)


(このインタビューは、『ジライヤ別冊 大和屋竺』(1995)に載った「『おんな地獄唄 尺八弁天』を撮り終えたくなかった」からの抜粋です)


『おんな地獄唄 尺八弁天』は、石森史郎のホンで撮った『男ごろし 極悪弁天』の続編でね。『極悪弁天』は弁天の加代と親分を切ったヤクザの話だった。これが好評で続編をつくることになったんだけれど、パート2は最初のよりボルテージが落ちる危険が多い。それで、いい作家のオリジナリティがパート2には必要だってことで、大和屋ちゃんに『尺八弁天』のホンを頼んだ。
『尺八弁天』は小川徹加藤泰に見るようにすすめたんだよ。加藤泰さんは、かなわないな、と言ったそうです。かなわないなっていうのは、緋牡丹博徒のホンは『尺八弁天』のホンにかなわないってことだと思う。『尺八弁天』のときには、緋牡丹博徒のことが頭にあったんだ。女ヤクザがお竜さんみたいに偉いわけがない。男に惚れても、背中に刺青があっちゃあ、うまくいくわけがない。一つ屋根の下に住めるわけがないと思った。それを打ち合わせのときに大和屋ちゃんに話して、ホンを書いてもらったんだ。
大和屋ちゃんの書いてきたホンを初めて読んだときにはふるえたね。『尺八弁天』は俺へのラブレターですよ。いい台詞ばっかりだし、主人公のまわりのキャラクターもいい配分で書けている。山中貞雄の時代劇の粋さに負けていないと思った。どうしてもやりたいから、俺は予算オーバーを覚悟で撮ることにした。大和屋ちゃんのホンだと、いつも五十万から百万くらいオーバーするんだ。オーバーした分は次の映画を安く仕上げて穴埋めしたけどね。
撮影のときにはみんなのってたなあ。国分二郎のセイガクが香取環の弁天の加代の刺青を闇の中で見ようとして、「明かりが欲しいところだな」って台詞を言うんだけれども、これがスタッフの間ではやってね。照明の話になると、みんな、「明かりが欲しいところだな」なんて言うんだよ。役者も自分の演じる役にのめりこんじゃってね。助監督の稲尾実が、監督、楽屋の様子がおかしいですよって言うんだ。ライバル心を燃やして、楽屋で誰もしゃべらないんだよね。
物語の後半、弁天の加代が囚われの身の少女を助けに行き、蝮の銀次ってヤクザを切る。セイガクには離れたところにいるのにそれが分かるんだよね。「蝮が一匹……」と言って尺八を吹く。すると、今度は弁天が「ああ、そこだね、今行きますともさ、吉祥天のお人……」と言う。遠く離れているのに気持ちが通じ合ってしまうというのかな。ああいうところが大和屋ですよ。大和屋ちゃんは普段は難しいことを言うけれど、本当は超ロマンチストなんだよね。
大和屋ちゃんのホンでは、最後の立ち回りはセイガクの爆薬をつめた尺八が爆発して終わることになっている。爆弾なんか、できるかよ、こんなもん、と切っちゃったなあ。俺は大和屋ちゃんに「これじゃ、劇画だよ」と言った。大和屋ちゃんは「そうですかあ?」なんて言ってたけれどね。大和屋ちゃんなら、『尺八弁天』を劇画ふうに撮ってたかもしれないな。
俺は最後の立ち回りを渡辺流に直した。刺されて瀕死のセイガクのもとに弁天がやってくる。弁天はヤクザたちと戦いながら、「立つんだよ、吉祥天の!」とセイガクに呼びかける。でも、セイガクは死んでしまう。「弁天、俺を呼ばないでくれ……」と言いながらね……。このセイガクの台詞は泣けるな。俺は弁天とセイガクの別れが撮りたかったんだ。
『尺八弁天』の撮影では最後にラストシーンを撮った。街道で空を見上げながら弁天がつぶやく。「仏さん、お慈悲ですからさあ」。この台詞には一番酔ったなあ。それから弁天は地獄唄を唄いながら歩く。それを移動で撮ってるうち、涙が出てきた。俺は同じカットをもう一度撮った。『おんな地獄唄 尺八弁天』って映画を撮り終えたくなかったんだよ。