『う・み・め』について(万田邦敏)

 「う・み・め」と聞いてイメージする映像は何だろうか。すぐには何も思い浮かばないだろうが、しいて思い浮かべるとすれば「海の目」=「うみめ」。あるいは「膿んだ目」=「膿み目」。しかし、映画のタイトル画面では「う・め・み」とも読める。タイトルバックの映像が梅の木だからなおさらだ。「う・め・み」なら「梅見」だ。となると、映画「う・み・め」とは「海の目」という何やらわけのわからないものが「梅見」に変化し、しまいには目が膿んでしまう、そういう映画か。しかし、こんなことはすべて後付けでどうでもいいことだった。どうでもいいことだけれど、それなりに信憑性がなくもないので、どうでもよくないといえばいえるのだが、そういってみても何がどうなるというわけでもない。
 というのも、そもそも「う・み・め」の出発点は「梅見」の話しでも撮ろうかという思いつきでありましたので、タイトルはそのときは「梅見」だったのです。男女取り混ぜた仲良し5人組、まあ、6人組でもいいのですが、といって4人ではものたりないのですが、その連中が梅見に出かける。そこはお寺の境内でありまして、我が家の近くにそういう梅の木で有名なお寺があったものですから、ついお寺と限定してしまったのですが、もちろん別にそれはお寺でなくても成立はしますが、しかしお寺と思いついたものですから、住職が出てきました。5人組だか6人組だかの仲良しグループがお寺に梅見に出かけると、そこでお寺の住職と出会う。ただそれだけを思いついて、出会ってどうなるかは全然思いつきませんでした。出会う前の彼らの会話の断片なら思いつきました。断片といっても、ほんとに断片で、だからこそ断片なのですが、彼らはビー玉の話しをしています。それはいいにおいのするビー玉で、実際にそんなビー玉があるのかどうかは知りません。たぶんないと思います。あってほしいとも思いません。でも、いいにおいのするビー玉なら、そのいいにおいというのがどんなにおいなのか、一度はかいでみたくなるでしょう。そうしてかいでみると、とんでもない悲劇が起こってしまう、そういうことを思いつきました。結局「う・み・め」には仲良しグループの梅見は描きませんでしたが、いいにおいのするビー玉にまつわる悲劇と、お寺の境内に出演者のほぼ全員が集合するというシーンは撮りました。それから住職も残りました。住職が残ると、どういうわけかその隣にスチュワーデスを立たせてみたいという欲望もでてまいりました。
 この文章はあと数行で未完で終わるのだが、未完は蜜柑ではない。にもかかわらず、蜜柑で終わる文章というものを考えみるとどうなるか。とうより、ビー玉のいいにおいというのは蜜柑のにおいだったのか。いや、違う。あれは紅茶のにおいだった。つまり、


『う・み・め』(2004/DV/28分)
監督・脚本:万田邦敏
撮影:芦澤明子、録音:臼井勝、照明:佐久間栄一
出演:小嶋洋平・四宮秀俊・長島良江・中村聡・三好紗恵