じっと見つめる―大工原正樹の映画について―(新谷尚之)

 大工原正樹の映画を観ていると時間の感覚がなくなってくる。いや正確には時間を意識しなくなる。
 あなたは小川でくるくる回る木の葉を、時を忘れて眺めつづけた事はないか。恋人の寝顔をじっと見つめていた時があっただろう。映画を映画たらしめているもの、時間を忘れて思わず見つめてしまう何か……。

 友人として知る大工原は、恐るべき誠実さと正直さを持つ男である。どんな時にもスタンスを変えず真正面から対して行く。はったりもてらいも無く、寄らず引かず、頑固だがかたくなでない。彼の映画はそのような真っすぐな視線のみで形成されている。
 大工原のカメラはふらつかない、対象をじっと見つめ続ける。代表作『風俗の穴場』でヘルス譲とセールスマンが、お互いの立場を知らないまま相対するショット。男が茶を飲み、女がうちわであおぐ。シンプルなフィックス画面。1分20秒の沈黙。
 コメディー映画であるから、その沈黙が笑いを誘うという計算はある。しかし、それとは別の何かを我々は目撃してしまうのだ。

 『赤猫』はモノローグ映画だ。井川のシナリオはモノローグの洪水であり、良くも悪くも作家の個性が濃密に印されている。そのまま撮ると単なる絵解きになるし。内面を映像で掘り下げると(井川自身の監督作『寝耳に水』のように)実験映画になりかねない。モノローグに演出のリズムも支配される。
 大工原は言う。「井川さんのシナリオどおりに撮りました。全然直してません。井川さんの意図をまげないように、それだけです」
 確かに『赤猫』は大工原が職人として、井川シナリオを映像化しただけに見える。カメラもほとんど動かさず、派手さもない。しかし、一見凡庸に見えるのは、大工原があまりに単純に映画の本質を射抜いているからではないのか。
 私は『赤猫』の音を消してみた。単なるモノローグやストーリーの絵解きなら観ていられなくなる。しかしサイレント版『赤猫』はいっそう私の目を引きつけたのだ。役者の顔が輝きを増す。風景が迫ってくる。映画そのものが立ち上がって来る。大工原の視線は、強く、重い。

 この作品で最も印象的なのは主演女優のモノローグ場面のアップである。肯定否定に関わらず、誰もがあのアップを口にする。
「単なるエキストラカットのつもりだったんです。でも編集し始めたら一杯使いたくなってしまって」大工原の弁である。
 女の喋るどこからどこまでが真実なのか。もしかして全てが幻想なのか。何重にも入れ子状になったこの作品で、唯一揺るがないステージ。それがあのアップだ。どこで喋っているのか、どこを見つめて、誰に向かって喋っているのかもわからない(もちろん夫にだが、独り言のように見えてくる)。単なる古典的手法。経済的、効率的に撮影するためのブリッジカットこそが、この映画の最深部であり、誰もがそのカットに魅入られてしまうのだ。そこにはすでにストーリーは無く。台詞も無く。時間すらない。

 映画にとって「じっと見つめる」事以外の何が必要なのか。大工原の作品を見るたびに、私はそう思う。


新谷尚之:アニメーション作家。代表作は『納涼アニメ 電球烏賊祭』。幻のソドム城(http://www.sodomujou.com/)では新谷尚之のマンガ作品などを読むことができる。おすすめは『タン』『風呂』『真夜中の記憶』『スチュワーデス物語・最終回シナリオ』。