黒沢清監督『LOFT』を鑑賞して(mk)

 まず物語のあらすじを簡単に示しておく。スランプに陥った女性作家・春名(中谷美紀)が田舎に引っ越しをしたところ、今やほとんど人の出入りがない大学の研修施設で、1000年前の女性ミイラを極秘保存していた教授・吉岡(豊川悦司)と知り合うことになる。ある日、珍しく学生たちが施設を訪れることとなり、ミイラを隠したい吉岡は春名に二、三日の間ミイラを保管して欲しいと頼みに来る。吉岡はたびたび姿を現す女の幻影(安達祐実)に悩まされていたが、春名もまた彼女を目にするようになる。その後、担当編者・木島(西島秀俊)の異常な性癖や彼と女の幻影の関わりが明らかになっていく中で、春名と吉岡はお互いを求め合うようになる。しかし吉岡は女の幻影が自分の前に姿を現すのは、自分が彼女の死に関連があるのだというおぼろげな記憶を持っていたため、その恐怖から逃れることが出来ずにいた。殺人事件、女の幽霊、呪われたいわく付きのミイラ、永遠の愛を求める男女——異様なモチーフの絶妙な掛け合いで、幾重にも折り重なったかのような複雑な物語は二転三転しながら展開していき、一度はすっきりと解決されたかに思われた全ての事象を引っくり返すラストシーンでの吉岡の突然の死が、一瞬にして新たな混乱のうちに観客を引き込んで突然終わりを告げた。
 さて、これから私的な考察とともに映画『LOFT』に関する批評を書き記していくのだが、初めに最初の2カットについて特筆しておきたい。それは物語の重要な鍵を握る沼の描写であった。沼というよりは泉のような滑らかな水面を取り囲む木々——その緑を基調とした色彩の美しさは息を飲むほどで、それだけで観客をあっという間にこの映画の世界観の中に引きずりこむ力が感ぜられた。無気味さを包容する圧倒的な美しさを初めに提示することで、この映画そのものをその最初の2カットで私は既に甘受してしまったようだ。
 

 『LOFT』には二つの恐怖が介在していたと言えるだろう。一つは映像として明らかに描写され、視覚・聴覚に対し突発的な刺激を与える恐怖。吉岡に襲いかかるミイラや、春名や吉岡の前に現れる女の幽霊などがそれである。そしてもう一つは直接的には描かれることのない、つまり映像をただ眺めているだけでは感覚的な薄気味の悪さとしか受け取れない恐怖である。
 訳の分からない恐怖、というのは黒沢清の映画からは切り離せないものであるが、『LOFT』はこれまでの作品におけるそれとはまた趣を異にするように思う。というのは、『LOFT』においてのこの種の恐怖があまりに意図的に隠された影の存在、あるいは裏の存在と言えるからだ。『カリスマ』『回路』『ドッペルゲンガー』『CURE』等、これまで数多くの「怪異」を物語のテーマとして取り扱ってきた黒沢だが、これらの作品は訳の分からない恐怖、或いはそうした恐怖に怯える人々の描写に徹していたように思う。彼の描く恐怖の特徴として、従来のホラー映画とは全く異質の無気味さがあると思うのだが、その恐怖は常に人間の心理に由来・関係していた。にも関わらず、あくまで恐怖は決定的な発生源、要因が明かにされず、訳の分からないものであり、それに関してあからさまな恐怖の描写というのはなされていなかったように思う。
 『LOFT』では見るからにおぞましいミイラや幽霊の突然の襲来という怪異的存在の派手なモーションが一見して全面に表れることで、この黒沢清特有の恐怖に関する描写が意図的に隠されている。
 

 長い前置きをしたが、私がこの映画の中で気掛かりに思ったのは、春名と吉岡が心を通わせてからの二人の変化である。吉岡と春名は深夜雑木林へ向かい、まるで何かが埋められているかのような不審な場所をを掘り返す。そこには二人が幾度となく目撃した女の無惨な死体があるかに思われたが、何もない。妙に吹き付ける風の中で二人は笑いながら固く抱き合い、これまでの過去を全て捨ててしまおうとお互い誓い合う。
 春名はその後、逮捕された担当編者・木島から盗作原稿を取りかえして焼くが、この直後の辺りから、二人の形相が急激に変化していように感ぜられる。それまで内気で陰気にさえ感ぜられた春名が次々と熱烈な言葉を発するようになり、吉岡もそれに応じる。まるで演劇かひと昔前の小説のように大げさな台詞回しをする二人だけを観ていると、この映画が全く別のドラマのように思えるだろう。物語の流れから完全に浮き立ったこの二人の掛け合いはしらじらしささえ滲む。この奇妙さへの疑問を思慮する暇もないほど、クライマックスの展開は目まぐるしいのだが、よくよく考えてみればこのような演出は黒沢清にとって極めて珍しいと言える。しかしこの奇妙さにこそ、幽霊やミイラとは異なる、まさしく黒沢流の恐怖が描かれているではないだろうか。春名の変化の正体とは、一体何なのであろう。
 

 ここで唐突ではあるが、少し私の話をしようと思う。以上の私の考察をより深く理解していただくためには、少なからず必要な事項であると思われるからだ。
 私には変貌を遂げた春名の行動に、実際の経験の中に思い当たる節があるのだ。というのは、私が高校生の時分のことである。おそらく春名が同じ年頃からそうであったように、私は自分が小説家になるだろうと思っていた。それは今考えれば実に高慢なことだが、私は願望としてではなく、予感としてそのように思っていた。私はただ級友たちよりは多くの文芸や思想に触れていたために、必然の結果として多くのイメージや語意を貯えていたに過ぎないのだが、そうして私が執筆した作品に関して、周囲の評価は予想外に高く、国語教師たちには我ながら随分と可愛がられたものだった。初めて書き上げた長編小説が小さな文学賞の三次選考を勝ちあがると、ますます図に乗った私は、自分が特別だというありがちな選民意識に飲み込まれ、当然のようにこのまま小説家になるのだろうと思い込んでいた。
 その少し前の頃から私はしばしば、知らず知らずのうちに小説の世界を実生活にそのまま投影しようと試みていたように思う。島田雅彦町田康の小説は数回目を通すとそれだけでほとんど暗記して頭に入ってしまって、極めて強いイメージを脳内で保った。そのため、私は小説の中の「彼ら」のように思い、行動したいと考え、また実際そのようにふるまった。「彼ら」がどことなく私自身に似ていたことは確かかもしれないが、この一種の真似っこは、自分が小説を書くようになるとより頻繁になった。自分の小説の主人公のふりをするようになってからである。
 私がその時分に書いていた小説はどれも「彼ら」にどことなく似た「私」の物語だった。嘘をつくのが上手く、比較的上流階級の出身であり、性行為に関しての意識が極めて寛容であり、人付き合いが下手なために学校に友人は多くなく、いたとしても少し頭のいかれた子で、自分は大人たちをだまして容量よく過ごしているにも関わらず、時代錯誤のパンクス精神を掲げている・・・いつもだいたいこんなめちゃくちゃな少女が主人公だった。
 思春期の「彼ら」に似た少女が、「彼ら」に似た「私」を主人公に、それも一人称で長編小説を書き上げようとするのは、危険な行為であるし、また無謀だったと言ってよいと思う。ただでさえ激しい思い込みがいとも簡単に、私自身と主人公の同一化を可能にしてしまうからだ。
 高校生の私は、私の小説の主人公に大変よく似通ってはいたが、実際私の世界はもっと虚ろで、そのドラマは実に陳腐だった。現実の不格好なドラマを卑怯にも濾過する形で私は小説を書き、また見て見ぬ振りをしながら実生活の感触をもすり変えていた。私は小説的人間であろうとし、当時の私は確実に自分を小説的人間であると認識していた。だいたい高校二年の終わりから高校三年の終わりまでそうした「作家生活」は続いた。
 大学に入学してからだんだんと私は小説を書けなくなった。中編から短編なり、超短編になり、やがて詩になった。
 私は小説家としては、劇中の春名と同様にスランプを迎えたのだ。しかし私は、多少戸惑ったりはしたものの、やがて仕方がないと楽観的になり、そのかわり映画の世界へとのめり込んでいくことになった。文字として表すことの出来なくなった表象を、変わりに映像として映し出そうした。私はそうして、欲望の生むイメージを発散する場を移行したのだ。
 私の中で、小説を書いていたころの現実的な感触は日々薄れていき、自分でそんなつもりはなくても、どんどん過去はどこかに勝手に捨てられているような感覚がする。
 しかし春名は自ら進んで過去を捨て去るために、わざわざ盗作原稿を取り返して燃やす。彼女自身の中で忘却の彼方へと自然に葬ってしまえばそれで済むものを、彼女はそれで満足できない。彼女が作家として最後のプライドを守るために執筆した盗作小説を消滅させてしまうことで、彼女はこれまで自身を支えてきた矜持さえ、強引に全て捨て去ろうとした。
 けれどきっと彼女は、物語の創造を求める作家としての性質まで捨て去ることはできなかったのだろう。矜持を捨ててもイメージは絶えず彼女の内で湧き上がりつづける。
 春名は行き場を失ったイメージをどうしたのだろうか。小説を書くことをやめて、かわりに春名は一体何をしようとしたのだろう。


 随分と遠回りをしてしまったが、話をここで『LOFT』のクライマックスに戻すことにする。
 木島が逮捕されたものの、女を殺したのは自分ではないのかという疑惑を拭いきれない吉岡は春名に促されて沼へと向かう。吉岡の無実を確信する春名は怯える吉岡を励まし、桟橋に佇むクレーンを引き上げさせる。一つの大きな箱が現れ、二人はおそるおそる箱を開けてみるが、そこには何もない。二人は抱き合い、愛を確かめ合う。「もう離さない」「永遠に」と語り合う二人は瞬く間に恐怖を乗り越えてしまっている。本来なら、このシーンが前述の雑木林におけるものの繰り返しであることから同じ結末であるわけではないという予感を覚えるのが当然であるのだが、やはりそうした猶予もなく、沼からは突然新たなる女のミイラが飛び上がるように現れ、吉岡は沼に落ちる。「永遠の愛」とともに春名は一人取り残されるのだ。
 あまりにもあっけなく、彼女はドラマを失ってしまう。
 このように考えることはできないだろうか。小説家であったことを捨てた春名はそれと引き換えに、まるで彼女自身も気付いていないとでもいうような調子で、いつの間にか劇的な虚構を現実の生活に投影した。彼女は、現実世界の陳腐なドラマを誇大化して捉えることに熱中していった。彼女の欲望は、虚構の体験を迷信し、その中で生きていこうとするよりほかに、最早解消する術がなかった。そしてこの突拍子もない彼女の妄想世界を成立させるためには吉岡は不可欠であった。春名にとって彼はその頼りない世界を支える根拠であり、希望であったから。しかし吉岡は沼に飲み込まれ、突然の死を余儀なくされる。それはそのまま現実世界で創造し得たはずの、紛れもなく彼女自身が主人公であったドラマの終焉そのものでもあった。


 高々と掲げられたミイラ化した女の死体を見上げる春名の呆気に取られた表情は、最愛のものを失った衝撃からなのか、それとも闇雲に溺れ込んだドラマの脆さを突き付けられた絶望からなのか。
 『LOFT』は「永遠」への執着とその限界というものを根本の主題としながら、幾つもの解釈を孕んだ物語を描く不思議な映画であった。