『成田アキラのテレクラ稼業』について(井川耕一郎)

 ずいぶん前に『成田アキラのテレクラ稼業』を見たというひとから、面白かったですねえ!と今にも吹き出しそうな顔で言われたことがある。直接聞くこういう感想は素直にうれしい。けれども、そのひとはさらに続けて、テレクラのマンガなんかを原作にして作品をつくるのは大変だったでしょう、と言ったのだった。これには困ってしまって、どう答えていいものか、ちょっとの間、考えてしまったのである。


 たしか、この企画の最初の注文は、テレクラをネタにシナリオを書いてくれないか、というものだった。プロットのしめきりがやけに早く、大急ぎでテレクラに関する雑誌記事などを集め、書き飛ばしたはずだ。当然、プロットの出来はいいものではなかった。テレクラをめぐる現実のどこをどう面白がっていいのかが、そのときにはまるで見えていなかったのだから。
 そして、その後、この企画は成田アキラの『テレクラ日誌』を原作にしてつくるというふうに方針が変わった。原作のマンガを求めて本屋を何軒か回ったものの、どこの店でも売り切れで、結局、フィルムキッズの社長・千葉好二さんと一緒に出版社まで行って、『テレクラ日誌』を全巻買ったのを覚えている。


 『テレクラ日誌』は、成田アキラが実際にテレクラを通して知り合った女性たちとの交流を描いたマンガだ。多少の誇張や改変はあるだろうけれど、とにかく事実が持つ面白さに満ちていた。自分の想像力だけではこんな話は書けないよなあ、と読みながら、何度もうなったものだ。
 しかし、『テレクラ日誌』で一番興味深く感じたのは、成田アキラの女性に対する接し方だった。彼は女性に関してまったく選り好みをしない。相手の女性が自分を求めているようであれば、その求めに応じてセックスをする。しかも、セックスのときには、相手がどんな欲望を持っているかを丁寧に聞き出し、その欲望を満たしてやろうと徹底的に奉仕するのである。
 成田アキラがこうした態度を取るのは、彼の中にマンガを描きたいという強い欲望があるからだ。女性の見た目などにこだわったり、自分の欲望を押しつけるようにセックスをしていては、面白いネタと出会いそこねてしまうだろう。私には、そういう成田アキラの性的欲望の隠し方、消去の仕方がとても面白く感じられた。そして、このマゾヒスティックなまでの女性への奉仕ぶりをうまくドラマに取り込めないだろうか、と思ったのだった。


 私がドラマをつくるために、原作の『テレクラ日誌』から選んだエピソードは次の三つだった。
(1)露出狂の女:彼女は屋外で全裸になると、成田アキラに自分の姿を撮れと要求する。撮っているうちに二人とも興奮してきて、成田アキラはセックスしようとするが、相手は性器挿入にはまるで快感を感じていないようだったというのがオチ。
(2)蛸足の女:成田アキラはある人妻とセックスするが、相手はあまり感じていないようである。それで、どうすればいいのか、と尋ねると、女性は恥ずかしそうにゆでた蛸足を差し出す。実は蛸足を性器に挿入されると、とても感じるというのだ。成田アキラは女性が望む通りに奉仕することになる。
(3)濡れすぎる女:成田アキラはある男性から妻とセックスしてほしいと頼まれる。ところが、いざ寝てみると、あそこが濡れすぎていて、挿入した感じがしない。成田アキラはペニスをちり紙で拭き拭き、セックスを続ける。すると、次第に摩擦感が出てくるのだが、そこで依頼者である男性とバトンタッチするはめに……。結局、ほどよい濡れ具合になるまでのつなぎの役をやらされていたのであった、というのがオチ。


 この三つのエピソードを選ぶときに参考にしたのは、二本の映画だった。そのうちの一本が高橋伴明の『日本の拷問』である。
 高橋伴明の『日本の拷問』は明治篇、大正篇、昭和篇の三話からなるオムニバスで、むごたらしい拷問を見せることが売りとなっていた。最初に見たのは十八のときだったろうか。正直言って、まったく生理的に受けつけない映画だった。たしか、明治篇では、木馬の上に乗せられた女性の股間から血が流れ、大正篇では、女性性器が畳糸で縫い閉じられ、昭和篇では、女性性器に竹筒を突き刺し、煮えた油を注ぎこんでいたはずだ。
 にもかかわらず、どういうわけだか、私はその後も何度か『日本の拷問』を見てしまっているのである。そうして、くりかえし見ているうちに思ったのは、この作品に出てくる男たちは女性性器にひどく恐怖を感じているのではないか、ということだった。まるで女性性器をモンスターかエイリアンかのように見なしているから、それを退治しようと、むごたらしい行為に出るのはないか、と思ったのである。
 要するに、ポルノというのは女性性器に対する男性の過剰な思いこみというか妄想を描くものなのだ、という結論にその頃の私は達したのだった。そういう意味で、『日本の拷問』は間違いなくポルノの王道を行くものなのである。その残酷描写に引いてしまうひとがいたとしても。


 話をシナリオのことに戻すと、私は『日本の拷問』のコメディ版みたいなものは出来ないかと考えていたのだった。女性性器に対する過剰な執着から、女性についつい奉仕してしまう男を主人公にできないか、と。
 そのときにふと思い出したのが、ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』だった。食事をしたくても、そのたびに邪魔が入って食事ができないという展開――あの展開を流用できないだろうか。つまり、ペニスを挿入したくても、その都度、女性に対する奉仕活動で回り道をさせられる男の話なんてのはちょっと滑稽で悲しいではないか、と私は思ったのである。
 そこまで考えると、シナリオを書く作業は楽だった。私は原作をそのままシナリオに書き写しただけだった。


 シナリオが出来上がると、監督を誰にするかという話になる。プロデューサーの千葉好二の決断は早くて、すぐに常本琢招にやらせようということになった。ただし、その理由は実にいいかげんで、最近、常本がテレクラにはまっているという噂を聞いたから、というものだった。
 ところが、肝心の常本琢招と連絡がつかない。一体、常本はどこにいるんだ?と皆があわてていた頃、私のところにずいぶんとのんびりした声で電話がかかってきた。
「いやあ、近頃、ヒマなんで実家に帰ってまして……、どうしてますか、フィルムキッズの皆さんは?」
「皆さんはあんたを必死になって探しているところだよ。『テレクラ稼業』の監督、常本さんに決まったんだから、さっさと東京に戻ってこないと」
 こうして常本が東京に戻ってきたのが、クランクインの十日前くらいではなかったろうか。大急ぎで準備をして、常本組は撮影に突入したのだった。


 完成した作品は常本らしいサービス精神にあふれたものに仕上がっていた。常本は、露出狂の女の挿話をアダルトビデオ風に、蛸足の女の挿話をピンク映画風に、濡れすぎる女の挿話をロマンポルノ風に、撮り分けてみました、と言っている。
 ピンク映画風とロマンポルノ風の違いはマニアックすぎて一般の観客には分かりづらいかもしれない。しかし、濡れすぎる女をロマンポルノ後期の女優・小川美那子が演じていると言えば、ちょっと分かりやすくなるだろうか。
 驚いたのは、小川美那子の夫役を三上寛が演じていたことだ。『おんなの細道 濡れた海峡』で味のある演技を見せたひとが、まさかこんなキワモノのエッチVシネに出てくれるとは……。あとで聞くと、このキャスティングは常本の努力の結果だというのだが、一体、常本はどうやって出演交渉をしたのだろうか。謎である。


 私が一番好きなのは、蛸足の女のエピソードだ。蛸足の女を演じる丘咲ひとみと、テレクラにはまった男を演じるミスターちんの芝居が、何ともおかしいのである。
 このシーンの出だしは常本の求めに応えて書き直しをしている。前のシナリオでは、ラブホテルに入ったものの、ミスターちんも丘咲ひとみも急に恥ずかしくなってもじもじしているというのが導入部だった。そして、丘咲ひとみがふいに、帰ります、と言って立ち上がったので、ミスターちんがあわてて彼女を押し倒すというふうになっていたはずだ。
 常本はこの導入部の芝居を倍の長さに伸ばしてくれと言ってきたのだった。そこで私は、丘咲ひとみが、帰ります、と言って立ち上がったあとの芝居を次のように書き直した。

俺「奥さん、ちょっと待って!」
  俺、ゆかりを引き止める。
俺「奥さん、じゃあ、じゃんけんしよう。じゃんけんで奥さんが勝ったら、帰っていい」
  俺とゆかり、じゃんけんをする。
  ゆかりの勝ち。
ゆかり「……やっぱり、わたし、帰ります」
俺「奥さん、もう一回、もう一回だけ」
  俺とゆかり、もう一度じゃんけんをする。
ゆかり「(困った顔で)あ……」
  俺がチョキ、ゆかりがグーで、ゆかりの勝ち。
俺のN「しまった、俺としたことが……。ええい、こうなりゃ、やけくそだ!」
  俺、急に高笑いしだす。
俺「奥さん、グーを出しましたね」
ゆかり「はい」
俺「奥さん、そのグーをもっとぐっと握ってみるんだ」
  ゆかり、言われた通りにする。
ゆかり「あ……!」
  人さし指と中指の間から親指の先がのぞく。
俺「奥さん、それが何だか分かるね」
ゆかり「し、知らないわ」
俺「ウソを言っちゃいけない。そいつはあんたの本心だ!」
  俺、ゆかりに飛びかかり、ベッドに押し倒す。


 何ともバカバカしいことを書いてしまったものである(しかし、この俺とゆかりのやりとりが、常本の次回作『人妻玲子 調教の軌跡』のシナリオを書くときに重要なヒントとなった)。
 常本は直したシナリオをもとにこのシーンを撮ったのだが、面白いのはミスターちんが「そいつはあんたの本心だ!」と言って丘咲ひとみに飛びかかったあとの芝居である。丘咲ひとみが押し倒されて、痛い……、と小声で言うと、ミスターちんが、あ、すみません、とこれまた小声で謝る。それから、ミスターちんが丘咲ひとみを裸にしようとすると、彼女は、あ、恥ずかしい……、やっぱり、わたし、帰ります……、と呟くように言いながら、しかし、言っていることとは逆に、服を脱がせやすい姿勢をとるのだ。
 このとぼけた味わいの芝居には本当に笑ってしまった。私が、あれはよかったなあ、と感想を言うと、常本はこう答えた。あのシーンを撮っているとき、ミスターちんと丘咲ひとみには面白い芝居をしそうな予感があった。それで、カットをかけるのをわざと遅らせたら、アドリブでああいう芝居をやってくれたわけです。
 へええ、そういう演出の仕方もあるのか、とそのとき私は思ったのだった。


 そう言えば、このシナリオを書いているときに、私はプロデューサーから内容にふさわしいタイトルを考えよ、と言われたのだった。
 それで近所のレンタルビデオ屋の中をうろうろしながら、どうしようか、と考えていると、『青春テレクラクラクラ』というタイトルのビデオを見つけてしまった。しかし、それは私の読み間違いだった。本当は大林宣彦の『青春デンデケデケデケ』だった。
 私はシナリオの表紙に「青春テレクラクラクラ」と書いた。かなり自信のあるタイトルだったのだけれど、発売元の会社からは却下された。理由は「ふざけすぎている」。どうせキワモノのエッチVシネなのだから、ふざけていていいと思うのだが。
 常本はその話を聞いて、「青春テレクラクラクラ」という主題歌をつくって、劇中で流そうと考えた。助監督の久万真路が歌詞を書き、音楽の村山竜二が作曲した歌は、なかなか楽しいものだったらしい。
 ところが、これまた発売元から、主題歌は不要なのでカットせよ、との命令が下った。結局、作品にかろうじて残ったのは、テレクラ、クラクラ、テレクラ、クラクラ……というコーラス部分のみとなった。
 しかし、十二年前にアテネフランセで常本琢招の作品が連続上映されたとき、『成田アキラのテレクラ稼業』について高橋洋はチラシにこう書いている。
「なお主題歌は子供が聞いたらたちまち歌い出すに違いない名曲」。
 まったく、発売元の会社は何も分かっちゃいないのだ。