大工原正樹への手紙(1)(井川耕一郎)

大工原さんへ

 大工原さんにも演出についていろいろと尋ねたいことがあるのですが、ちょっと回り道をして万田さんの話からしてみたいと思います。たぶん、そうした方がこれを読む他のひとたちにとっても親切なんじゃないかな、と思ったからですが、さて、分かりやすく問題を整理して書くことができるかどうか――。


 『映画の授業 映画美学校の教室から』という青土社から出ている本がありますね。この間、それに収録されている万田邦敏さんの講義録「私たちは映画の何を見ていないのか 『ダーティーハリー』をめぐって」をひさしぶりに読み直したのですが、これはムチャクチャ面白い読み物ですね。
 講義は『ダーティーハリー』の物語をどう要約するかという問から始まって、具体的に画面に映っているものに着目してみようというふうに展開する。そうして、この映画は「警察バッジで始まって、警察バッジで終わる映画」であるととらえてから、その他に映画の中でくりかえし映っているものはありませんか、という問いかけに移っていく。
 で、水、高低差、十字架などがくりかえし出てきていることが分かるのですが、そこまで来て、ふいに万田さんは、「さてじつは、いままで言った繰り返されるものたちが、冒頭のクレジットのシーンですべて出てきている」と言い出すのですね。そして、冒頭部分を見直してみると、本当にすべてが出そろっている。
 おお!と思わず声が出そうになりましたね。万田さんが、ほら、ここに出ている、ここにも出ている、とくりかえされるものを一つ一つ指摘するあたりは、まるで名探偵の謎解きのようです。この講義録は推理小説的な面白さに満ちていて、ああ、この講義、実際に聞いてみたかったなあ!と思ってしまう。


 それにしても、読み終えて気になるのは、この万田さんの講義録が演出の章に収録されていることです。これって演出に関する授業なんだろうか。たぶん、万田さん自身、そうは思っていないでしょう。映画美学校の授業の枠で言えば、これは「映画表現論」というやつにあたるのではないか、と。
 というのも、本の構成を考えた編集者の意図に従って、万田さんの講義録を演出に関する講義として読んだ場合、ちょっとひっかかってくる部分があるのですね。講義の終わり近くに出てくる次の言葉がそうです。
「つくり手は必ず何をどう見せるかということに腐心している。いままで皆さんに質問してきたようなことは、つくった人たちならば即答しているわけですね」
 この部分は、万田さんが生徒の映画の見方を揺さぶるためにあえてついたウソだと思うのですね。万田さんの問に本当に『ダーティー・ハリー』を撮ったドン・シーゲルたちが即答できるかどうかはちょっと疑わしい。
 冒頭の警察バッジやプールに浮かぶ犠牲者などは、一生懸命考えてラストシーンから逆算して産みだされたものだろうという気がします。消火栓から吹きだす水や砂埃などについては、撮っているうちに、ああ、おれたちは似たようなことをくりかえしやっているよなあ、というふうに思うかもしれない。
 けれども、十字架はどうなんだろう? スタジアムでハリーが犯人を痛めつけるシーンで、万田さんはここにも十字架は出ていると言って生徒と一緒にビデオを見直しています。すると、何と「命乞いをする犯人ごしの地面にはっきりと白い十字状にラインが引かれている」というのですが、そこまでドン・シーゲルたちがきちんと考えて撮っているかどうか。スタジアムの白い十字は、作品完成後、ひとに指摘されて、あ、そうなんですか、と初めて気づくようなものではないか、と思うのですが……。


 一体、スタジアムの白い十字や、くりかえされるものがすべて登場している冒頭部分については、どのように考えたらいいのだろう。「偶然、映っただけ」というのが一番まともな答なのでしょうが、本当にそれを正解と言ってしまっていいものなのかどうか。
 「偶然」と言っても、それは意識から見た場合でしょう。無意識から見た場合には偶然ではないかもしれない。
 監督の無意識をスタッフが読み取って、「偶然」を意識的に実現させたのかもしれないし、監督の狙いを聞いているうち、スタッフの無意識が働いて「偶然」を引き寄せてしまったのかもしれない。あるいは、監督もスタッフも皆がまったく無意識のうちに「偶然」を引き寄せ、実現させていたのかもしれない。
 でも、こんなふうに言ってしまうと、別の問題が出てきそうですね。映画表現を豊かにするものが撮影隊の無意識だとしたら、意識的な努力にはさして価値はないのか、と問い質されてしまいそうな感じがします。
 ――と、ここで唐突にぼくが思い出すのは、大学のときに体育の授業でやったトランポリンなのですが(しかし、何でぼくはそんな授業をとってしまったのか……)。
 トランポリンの授業で、ぼくら生徒は皆、バク転をやらされたわけですが、そのときに先生がこう言ったのですね。後ろに回ろうと意識すると、後頭部から落ちて首の骨を折る危険がある。単に高くジャンプして、顎をくいっ!と素早く上にあげるだけでいい。そうすれば、体はひとりでに回る、と。
 演出についても似たようなことが言えるのではないか、と思うのですが、どうなんでしょう? つまり、ある問題をどう解決するかを考えていると、無意識がそれに連動して他の問題も同時に解決してくれるのではないか、と。逆に言えば、ある問題について意識的に考えないかぎり、無意識は作動しない、と。
 万田さんの講義録と結びつけて言うなら、「つくり手は、必ず何をどう見せるかということに腐心している」けれども、では、一体、「何を」とは何なのか――それを探ることが演出について考えるとっかかりになるのではないでしょうか。


 そういえば、常本さんの『制服本番 おしえて!』の自作解説*1には、こんなことが書いてありましたね。

撮影が始まりました。問題は、カラミ、セックスシーンです。どうやって撮っていいか分からない。撮影前に、カラミがいやらしい小沼勝監督作品を見て勉強しましたが、到底同じことができるはずもない。結局、中途半端でだらだらしたカラミにしかならず、この映画で一番反省している部分です。
カラミはその後の作品でも鬼門で、要するに「臨場感」が出せない、ということなのですが、なんとなくいやらしく撮れる感触が遠くに見えてきたのが『黒い下着の女教師』、これならいやらしいか?と自分で納得できたのが、たぶん最後のVオリ作品になる『恋愛ピアノ教師』でしたから、長い道のりでした。


 ここで常本さんはカラミをどう撮るかだけを問題にしているのですが、実は話はそれだけで終わらないと思うのですね。カラミをいやらしく撮るには、その前後の芝居をどうするかも考えないといけない。特にカラミの前の芝居ですね。ここで気分を高めていかないと、カラミはいやらしく撮れない。
 そういう点から、常本さんがぼくにシナリオの直しを求めてきたときのことを思い返してみると、ああ、なるほど、と思うことがあるのです。たいてい、常本さんは、カラミの前の芝居を直してくれ、というのですね。セックスしようと誘うあたりの芝居をもっといろんな工夫を入れて倍の長さにのばしてくれ、と。どうやら「誘惑する―誘惑される」という関係を丁寧に描きたいようなのですね。
 となると、カラミの臨場感をいかに出すかという問題は、常本さんがいかに人間関係をとらえているかということにもつながり、つきつめていくと、カラミとはまるで関係のない細部の演出にも実はかかわっているのではないか、と思えてくるのですが……(もちろん、この点については、個別の作品分析をしないと、はっきりしたことは言えませんが)。


(続く)