[西山洋市]井川耕一郎への返信(その2・「1カット1シーン」という考え方について)(西山洋市)

映画は、ある一連の場面をいくつかのカットに分けて、その一つ一つのカットをバラバラに(通常、一台のカメラで)、ことによると前後の順番も無視して撮影しますね。それを編集によって、さも一連の出来事が繋がれたカットの順番に時間的にも連続して撮影されたかのように見せかける。それが普通なわけです。まともに考えればインチキですよね。
そのインチキに対して正義感を発動したのが「1シーン1カット」という方法ですね。一連のシーンは起こったとおりに切れ目無く丸ごと捕らえるべきだという、編集による詐術を許さぬ正義感。
だとするなら、1カット1シーンは、映画のインチキをちゃんと認識しつつ、インチキでいいではないかと認めるおおらかな思想といってもいいかもしれません。いや、映画のひとつひとつのカットは前後の繋がりなど関係なく撮られた、ただそれだけのものだ。それを一連の出来事であるかのように見せかけているのは編集のテクニックによる幻想に過ぎない。それでいいではないか。だとするのなら、問題にするべきなのは、バラバラに撮られたはずのカットとカットがうまく、あるいは自然に、繋がっているかどうかという編集上の問題などではなく、ひとつひとつのカットがいかに魅力的か、その強度だけではないのか。物語の進展は、そういった出来事の連なりから、つまり芝居の断片の連なりから、見た人が各自の想像力で読み取ってくれるだろう。
その、カットの強度を作るものは何か。それは、そこに写っている被写体、つまり役者であって、その芝居である。他にはない。
しかし、実は、「1シーン1カット」という技法を支えるのも、その内実である一連の芝居であって他にはないのだから、芝居重視という意味では同じなんですが、旧来の「1シーン1カット」の考え方のイメージには、カットがシーンに従属しているかのような敗北感がまとわり付いている。本来無いはずの上下関係がそこにはあるような感じになってしまっている。それがなぜかは知らないけれど、その古い価値観をとりあえず停止させたい。カットはシーンに従属するものではない。世界は、ひとつひとつのカットの手ごたえそのもののうちにしかない。つまりひとつのカットはひとつのシーンであるべきなのだ。
カット割りの根拠は、絵柄でもなければカメラワークの都合でもないし、まして編集の、つまり繋がりの良さの問題、などではない。井川君の言うとおり、芝居の持続の問題ですね。カットが変わるということは、そこで芝居の持続が新しい局面に入る、転換する、ということでなければならない。そうでないカットの変換は、つまりカットが変わっても同じ局面が続いているようなカットの変換は、芝居の演出という点から見れば間違っているし、無意味で退屈なだけです。
芝居の演出とは、単に演劇的に芝居を作るということではなく、ひとつひとつのカットの在りようと係わってくるし、むしろひとつひとつのカットそれ自体(の内容を考えること)だと言ってもいいかもしれない。1カット1シーンとは、1カット1芝居(の持続)といってもいいかもしれない。それくらい、芝居とカットとは密接に繋がっているということです。


(この原稿は「西山洋市への手紙」(井川耕一郎)(5月31日)に対する返信です。)。