井川耕一郎への返信(その1)(西山洋市)

返事が遅れてすみません*1
僕は記憶力がよくないので、昔のことを思い出し思い出ししているうちに時間が過ぎてしまいました。とりあえず、思い出したことだけです。


8mmで自主製作映画を撮っていたときの出演者は友人や知人や知人のまた知人をちょっと紹介してもらったりといった感じの身の回りにいる人たちばかりで、選ぶ基準は演技のうまさなどではなく、彼ら彼女たちの普段から知っている個性だったり、単純に見た目の印象だったり、それから、その人たちの組み合わせ、だったと思います。個性といっても、特別他の人と変わっている何かではなく、他人から見ればごく平凡なものかもしれないけれど僕には魅力的に感じられる何か、ですね。
シナリオみたいなものを作ってから、この役はあの人でやったら面白そうだという場合もあれば、初めから出演してもらう人を前提にして、あの人だったらこんな役にしたら面白そうだという具合に作っていった場合も多かったと思います。
だから、撮影中のOKとNGの判断も、演技のうまさなどではなくて、僕が知っているその人の面白さや良さが出ているかどうか、ですね。もちろんフィクションの劇映画ですから、フィクションとしての登場人物として成り立っているかどうか、が大きな前提にはなっているわけですけど。
そのフィクションとしての登場人物を作り出すために、いや、魅力的に作り出すために、僕は彼ら彼女たちの普段の個性を拠り所にさせてもらった。つまり、身の回りにはいろいろな点でチャーミングな人たちがたくさんいる、その中でもこれは映画に生かせる、映画で生かしたい、と思った人たちに出てもらい、そのチャーミングなところを人物作りに生かした、そして、僕はそういうやり方しか知らなかった、ということだと思います。
僕以外にも、そのような感じで映画を作っていた人は、自主製作映画にはたくさんいたんではないかと思います。しかし、今にして思えば、僕はむしろ演技のうまい人をキャスティングすることを避けていたのかもしれません。演技のうまい人は、そのうまい演技によってその人の本来持っている魅力を消してしまう、ような気がしていたのではないか。それに、そういう人に対してどのように演出をしてゆけばよいのかも分からなかったんですね。


最初に仕事としてテレビドラマの演出をすることになったとき、それは僕が初めてプロの役者さんに出演してもらうことになったときですね。その『おろし金に白い指』の主演は、いまは主に舞台で活躍している秋山菜津子さんですが、彼女は僕と脚本の高橋洋がたまたま深夜テレビのシュールなコント番組で見て、たいへんに気に入っていた女優さんです。
秋山さんは美人だし、歌もうまいし、そのうえコメディが出来る。コメディが出来るということは、演技的にかなりカンが良くて、センスもいい、ということです。
彼女はある家族の若い主婦の役なんですが、彼女の夫の役は『INAZUMA 稲妻』に出ている松蔭浩之に頼みました。松蔭君は美術家であって役者ではありません。しかもドラマに出演するのは初めてでした。それから、松蔭君の妹、つまり妻の秋山さんから見ると小姑の役は、自主製作映画のときに出てもらったことのある桑畑昭子さんでした。知ってのとおり、桑畑さんは早大シネマ研究会の自主製作映画によく出ていた人で、素人役者としてはかなり演技のうまい人です。けれども、彼女のうまさは訓練されて個性を消されたものではなく、多分、単純に素質的なもので、彼女の個性の一部なんですね。つまり天然といってもいいようなものだと思います。
『おろし金に白い指』のメインのキャスティングはこういう3人の組み合わせでした。
で、秋山さんを通じて分かったことは、プロの役者の凄さは、シナリオの狙いを的確に汲み取る能力と、それを演技として正確に再現する技術だ、というようなことです。なおかつセンス良くそれが出来る人です。
秋山さんは、あまりにも鋭利で危ないおろし金の存在からヘンな妄想をふくらませて探偵みたいなことを始めるおかしな主婦という難しい役をチャーミングに演じてくれたのですが、撮っているうちに、ちょうど大工原さんが『赤猫』のときに感じたという不安と同じような不安というか、ちょっとした欠落感のようなものですが、それを僕も感じていたんですね。大工原さんが『赤猫』の撮影途中で、「女優森田亜紀としての見せ場をつくってあげられているか」*2とふと思う。役のキャラクターの問題でも、物語上の見せ場でもなく、主演女優そのもの、その人の見せ場が欲しい。それを大工原さんほど明確に考えたわけではなく、僕の場合はもっと直感的なものでしたが。
こういう考え方をするのは西洋近代劇のリアリズムの考え方とは違う、歌舞伎という独特な演芸の歴史を持ってきた国の演出家の特性かもしれない。歌舞伎そのものを知らなくても、かつて見てきた昔の日本の映画や演芸にはそういうものが生きて引き継がれていたんじゃないかと思います。
それはともかく、『赤猫』で不安を感じた大工原さんが撮ったのは、主演女優森田亜紀のシナリオにはなかったUPのショットですが、僕も似たようなことをしていました。シナリオには無かった主演女優秋山菜津子が歌うショットを延々と撮ったんです。
一連の事件が片付いて元の日常に戻った彼女がひとりでふと息をつくという場面で、「さざんか、さざんか」という唱歌を口ずさみ(それは、それまでに彼女の家の近所からピアノの練習の音として何度も聞こえてきた音楽でした)、一番まるごと歌い終えるまで前進移動のショットで彼女を撮ったんです。確かシナリオでは主婦が鼻歌を歌うという程度だったものを、はっきり歌として、しかも大分長く撮ったんですね。それがうまくいったかどうか、この作品にとっていいことだったかどうか、分かりませんが、歌う秋山さんは、それまで主婦として姑や夫や妹や近所の人たちや、に見せてきた顔とはまったく違う顔を見せてくれました。それは、役の主婦の素の顔でもあり秋山さん本人の素の顔でもあるような。シナリオから想定される顔とは違う顔、違う感情ですが、それがエンディングのひとつ前の場面になりました。その前には下着泥棒騒ぎや犯人の判明などの物語上のクライマックスがあるんですが、主演女優秋山菜津子のクライマックスはこの歌のシーンです。
僕はこのショットを撮ったことから、演技のうまさと役者本人の魅力の関係について、フィクションにおける役と役者の関係について、考え始めたのかもしれません。つまり、自主製作映画のときの出演者の素の魅力を基にして役を立ち上げるというやり方と、それとは正反対の、役者のうまさで立ち上がっている役にさらに役者の素の魅力を盛り込むにはどうすればいいのか、という2方向のアプローチから、より意識的にフィクションとしての芝居のあり方と役者の演出について考え始めたのだと思います。
芝居の演出に関する問題に何かひとつの決定的な答えが出たわけではなく、いまだに考え続けているわけですが、しかし、一つ言えることは、演出とは技術や方法の問題であるより先に、考え方の問題だということですね。役と役者をどう考えるか、その考え方の方向性によって、作品世界自体が大きく変わる。イメージではなく、考え方です。
次に撮った『ぬるぬる燗燗』の主演は藤田敏八ですが、シナリオのイメージは藤田さんではありませんでした。関西の下町人情ものの世界ですから、藤田さんはむしろミスキャストかもしれない。しかしイメージどおりの下町人情が似合う役者を選んでいたら、イメージどおりの雰囲気にはなってもそれ以上の面白さは生まれなかったでしょう。演出的にはむしろ平凡でつまらないものになってしまったかもしれない。藤田さんを選んだのはイメージではなく考え方で、その考え方とは、下町人情ものではなくむしろ暗黒街ものに見立てたらどうかというアイデアです。そういう考え方は、キャスティングの可能性として偶然に藤田敏八の名前が出てきたときに、同時に浮上してきたものです。つまり、抽象論として始まったものではなく、あくまでも具体的なものです。
そういう考え方の方向性によって、相手役に大和屋竺という重要なアイデアも出てきた。さらに、そうして作られた作品世界が続編の構想にも繋がって、続編の『ぬるぬる燗燗の逆襲』はより暗黒街ものとしての色が強まり、敵役の悪女の役に再び秋山菜津子に出てもらうことになりました。『おろし金に白い指』とは正反対の役ですが、もはや歌など必要がないほど魅力的に演じてくれました。この作品で、藤田敏八大和屋竺秋山菜津子の三人それぞれの良さを芝居としてちゃんと見せることがやっとできたのではないかと思っています。


その後は、演技経験の無い新人に、プロの俳優と一緒に遜色なく演じてもらうために行った本読みやリハーサルを通じて、本読みやリハーサルというものの演技の強度にかかわる効力について実感し、その可能性を考えるようになってゆくのですが、話が長くなるので、とりあえずここでやめておきます。
ではまた。


西山


DRAMADAS 伊藤潤二+山上たつひこの謎さがし 戦慄の旋律/おろし金にしろい指 [DVD]

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*1:この原稿は「西山洋市への手紙」(井川耕一郎)(5月31日)に対する返信です。

*2:大工原正樹「『赤猫』森田亜紀について」(プロジェクトINAZUMA 1st harvestパンフレット・7ページ)