『カポネ大いに泣く』(鎮西尚一)

 鈴木清順の『カポネ大いに泣く』はオープニングからして、実にワンダフルな映画だ。あの昔のニューズリールに映っている遊園地のグルグル回る円盤や飛行機の曲乗りは、まったく純粋に無意味な運動であるところが、すばらしい。『カポネ大いに泣く』のワンダフルさは、これにつきる。無意味な運動をすること、つまり、「怠惰」であることのすばらしさが、この映画のすべてだ。
 実際、この映画に出てくる人間は、何一つ建設的なことをしない怠惰なやつらばかりだ。沢田研二はロッキングチェアにだるそうに座っているだけだし、田中裕子は意味もなく車を横転させて(だが、その派手な横転ぶりがワンダフルだ)死んでしまうし、萩原健一浪花節にうつつをぬかして、生活しようとしない。できれば、自分もああいう怠惰でワンダフルな生活を送りたいものだ。
 だが、はたしてこれは「歌う日本映画」なのだろうか。『東京流れ者』はまちがいなく「歌う日本映画」だったが、これはちがう気がする。確かにショーケンは劇中で何度か浪花節をうなっている。だが、毎度、場違いで素頓狂なものだから、人を途方に暮れさせるばかりだ。きっと鈴木清順は脚本に浪花節と書いてあるから撮っただけで、本当は、そんなもの、どうでもいいと思っていたのだろう。まったく怠惰でワンダフルな人だ。
 ところで、私が最も怠惰でワンダフルだと思った瞬間は、映画の前半、暑さをしのぐためにホテルのテラスにいる沢田研二と田中裕子をとらえたカメラが、不意に横移動し無人の駅舎を映した瞬間だ。このカメラの無根拠な移動は余りに暴力的に怠惰で見る者すべてを泣かさずにはおかないだろう。とにかく私は泣いた。要するに私の結論は、『カポネ大いに泣く』は「歌う日本映画」ではないが、実に怠惰でワンダフルであったということなのである。


(このエッセイは、『唄えば天国・地の巻』(メディアファクトリー)からの再録です)