溝口と成瀬の演出の特徴は「長回し」でも「カット割り」でもない(西山洋市)

溝口と成瀬の演出の特徴は「長回し」でも「カット割り」でもない。人物の背中の使い方にこそあるのだという仮説に基づいて、実際にいくつかのシーンを見ながら、ふたりの演出の本質について考えたい。

溝口健二長回し成瀬巳喜男の端正で的確なカット割り、そのような言葉で言われているふたりの演出家の本質的な特徴は何か? 
それは、演技の演出、人物の動かし方にこそある。
技法的には正反対に見えるふたりの映画のある局面における人物の動かし方には、実は、ある共通点がある。ある局面とは、ドラマの展開上、重要な変化が起きるシーンであり、その時、人物は他の人物に背中を向けるのだ。
顔と違って、背中は意味の空白地帯だ。ふたりの演出の特徴は、その背中の活用法にある。人物たちは背中で誘惑し、背中で拒絶する。背中で逡巡し、背中で葛藤する。その時、背中によってダイアローグは一時的にモノローグと化し、モノローグがさらにダイアローグへと変化する。そのダイナミックな、あるいは繊細な転換がドラマを画面に焼き付けるセリフのアクションを生み出している。溝口の長回しも成瀬のカット割りも、そのアクションを土台に構築される。つまり、そのようなアクションなしに長回しもカット割りもあり得ない。
ダイアローグとモノローグのせめぎ合いを、それぞれの人物の心情に合わせてカットを割り振って撮る成瀬は叙情的な演出家であり、人物に合わせてカットを割り振ることなくそのせめぎ合いを丸ごと撮ろうとする溝口は叙事的な演出家である、とも言えるかもしれない。
だが、そのような違いを超えて、映画の芝居における人物の背中の機能を追及したふたりの演出家によって、「人の心は背中にある」という映画言語が確立されたことを、もうみんな忘れてしまった。映画において、人の心は、胸でも、腹でも、まして頭の中でもなく、背中にだけ宿る。溝口と成瀬の映画はそのことを、ばかばかしいほどあっけらかんとしたやり方で教えてくれるのだ。