渡辺護の映画論「主観カット/客観カット」(3)

(このインタビューは、2004年に公開された渡辺護監督作品『片目だけの恋』の宣伝サイトに掲載されたものです)


1.「アップ―フルショット」じゃなくて、「主観―客観」

――渡辺さん、今までの話を整理して、ちょっと質問していいですか?
渡辺護「ああ、どうぞ」
――渡辺さんの言う「主観カット・客観カット」というのは、つまり、こういうことですか? 主観カットとは、観客に登場人物への感情移入をうながすようなカットであると。それに対して、客観カットは、観客に「物語の中の世界をどう見るか」という問いを考えるようにうながすカットであると。
渡辺「まあ、そういうことかな」
――で、一言で客観カットと言っても、実際には客観性に高低があるように感じました。つまり、客観性の低い客観カットは、監督が「ご自由に解釈して下さい」と言っているように見えるカットで、客観性の高い客観カットは、そのカットを撮った監督の世界認識を強く意識させるようなカットである、と。
渡辺「うーん、おれは感覚的に思ったことをしゃべってるだけでね……」
――渡辺さんは、小津や溝口の映画では主観と客観が同時進行しているとおっしゃってましたね。ということは、主観カットと客観カットの2種類のカットがあるのではなくて、どのカットにも主観的な面と客観的な面の二つの側面があると理解していいですか?
渡辺「そうですねえ。そう言ってもいいかな」
――だとしたら、渡辺さんの今までの話はグラフに描くことができますね。
渡辺「???」
――X軸を主観性、Y軸を客観性としてグラフを描くと、X軸寄りの領域が主観カット、Y軸寄りの領域が客観カットとなる。で、原点の0から45度の角度で右上へと伸びていく直線の先に、小津や溝口のような主観・客観同時進行のカットがあって、それで、渡辺さんの映画の撮り方はというと……
渡辺「おいおい、難しい数学の話は分からねえよ(笑)。そういう話は(小田切)理紗にしてくれ。あの娘は高校のときに理数系だったそうだから。数学が好きだなんて面白い娘だよ、小田切理紗は!」


 おれの話が役に立つとして、結局、おれが若いひとたちに言いたいことはね、こういうことです。
 若いひとが撮る映画を見ていて最近気になるのは、ドキュメントふうに客観カットだけで映画を撮ろうとしてるってことだ。この傾向は相米慎二以後のものだね。相米慎二の1シーン1カットを評論家がやたらと誉めてた時期があったでしょう? それで、若いひとたちは「アップは説明的だ。引いた画で客観的に撮るのが映画として高級だ」と考えるようになったんじゃないか。
 おれは相米慎二の『翔んだカップル』は封切りのときに見て、しゃれてるなと思ったんだよ。でもね、『魚影の群れ』あたりになるとね、そんなに苦労してまで長回しをやる必要はないだろうという気がした。意味もなく長回しをしていると思った。
 相米さんについては、『お引越』『あ、春』『風花』といった作品で評価すべきだと思う。このあたりの相米さんの映画はさすがだ。人間はばらばらで孤独で悲しい存在なんだということを緻密な構成で撮っている。登場人物の行動のあとにストップする瞬間が来ると、そこが主観カットになっているんだよ。主観・客観が同時進行している映画を撮っていたと思いますねえ、相米さんは。
 でもね、相米慎二のそういう優れたところを若いひとたちは見落としてると思うんだよ。対人関係の描写がいいかげんになっているんじゃないか。「こういう人間関係がありました。あとはご自由に解釈して下さい」って観客に放り投げて終わりという感じ。客観カットで押し切ってドキュメントふうに撮るのが本当に映画的に高級なのか、考えて直してほしいね。
 映画ってのは、登場人物の喜怒哀楽が表現されてないとダメだと、おれは思うんですよ。だから、若いひとには、「アップ―フルショット」じゃなくて、「主観―客観」で映画を撮ることを考えてほしい。フルショットで撮ってもいいけれど、役者の動かし方、間の撮り方をきちんとやるべきだと思う。そうして観客を映画の中に入りこませていかなくっちゃいけないよ。


補足:アップには力がある。たとえば、登場人物がある台詞を言うのが重要だとしますか。そうすると、アップを撮ろうってことになる。でもね、ここも重要、あそこも重要ってことで、そのたびに撮ってたら、アップが効かなくなるんだよ。ただの説明カットになってしまう。言葉にすると、バカみたいに簡単なことだけど、アップはね、お客さんが見たいってときに入らなくちゃ。
 『片目だけの恋』のラスト15分の芝居の中で、最初にお客さんが見たいと思うのは、ユカが「あの日、何で来てくれなかったの?」と言うところだ。だから、この台詞を言うまでおれは小田切理紗のアップを撮ってない。で、いよいよ台詞ってときには、理紗のいい顔を撮ろうってことで、かなり気をつかってアップを撮ってる。


2.「監督は役者に芝居をつけることだけに専念しろ」と言われた

 でもね、実を言うと、おれも昔、小森白に言われたんだよ。「監督は役者に芝居をつけることだけに専念しろ」と。
 『処女残酷』(67)って映画を城ヶ島で撮っているときだった。キャメラマンとおれが対立したんだよ。おれが寄って撮れと言っても、そのキャメラマンは聞かないんだ。こういうときには普通こう撮るものだと言ってね。
 おれはそういう考え方が嫌いなんだよ。おれがTVドラマの助監をやってたときについてた監督はみんな、そういうやつらだった。たとえば、喫茶店で待ち合わせをしているシーンを撮るとしましょうか。そういうとき、おれのついてた監督は、最初に引きの画で喫茶店全体を見せて、それから待っている女のアップを撮って、その次に……っていうふうに何の疑問もなく撮っていくんだよ。それがこういうシーンを撮るときの常識で、撮影の効率もいいってことなんだ。
 おれはそういうマンネリズムが大嫌いだった。だから、監督になってから、1カット1カット、映りに神経質になって撮っていた。それが『処女残酷』のとき、パターンどおりの撮り方をしようとするキャメラマンと対立してしまったんだ。
 そうしたら、運悪くそこにプロデューサーのパクさん(小森白)がやって来たんだよ。
 その日は泊まっていた旅館の都合で、一晩だけユースホステルに泊まることになっていた。で、撮影を終えてユースホステルに着いたとたん、パクさんが「ナベ、ビールを買いに行こう」って言うんだよ。ユースホステルにアルコールはないからね。
 パクさんの車で酒屋に行ってビールを買って……、戻ると思ったら戻らないんだよ。ちょっと呑もうやって、呑み屋に入った。そこであわびなんかをごちそうになってるときに、パクさんに言われたんだよ。
「なあ、ナベ、キャメラマンはいいところから撮るのが仕事なんだ。どう撮るかはキャメラマンに任せろ。お前は芝居をつけることだけに専念しろ」
 ユースホステルに戻ってからも、パクさんは「カット割りなんか考えずに、さっさと寝ろ」と言うんだ。でも、寝ろったって寝られやしない。結局、パクさんがもう寝たろうなって頃にこっそり起きて、明け方まで必死になってカット割りを考えたんだよ。
 翌朝、パクさんが「撮影だぞ」とおれを起こしに来たときに、しまった!と思ったよ。その頃のおれはヘビースモーカーだったからね。カット割りしながら吸った煙草の吸い殻が灰皿に山盛りになってたんだ。でも、パクさんはそれを見ても、何にも言わなかった。
 おかしいと言えば、キャメラマンの態度もおかしかったんだよ。おれがこう撮りたいと言っても、反対しないんだ。「はい、はい」とおれの言う通りにするんだよ。
 どうしてそうなったかは、後になって、そのときのキャメラマン助手から話を聞いて分かった。
 その日の朝、パクさんがキャメラマンを呼んで言ってくれたらしいんだ。
「ナベには芝居だけを考えろと言ったのに、あいつは明け方までカット割りをしていた。そこまで一生懸命になっているんだから、あいつの言うことを聞け。できないなら、うち(東京興映)はお前さんにはもうキャメラを頼まない」と。
 ……今思うと、おれはひとの心を無視して生きてきたと思う。世間知らずのわがままで押し通してきた。ずいぶん、ひとに助けられてきたのに。
 反省することばっかりだよ。今さら、この性格は変えられないけどね。
(続く)