渡辺護の映画論「主観カット/客観カット」(2)
1.あのとき、おれにはチョクが神様に見えたね
昔、ダスティン・ホフマンとミア・ファロー主演で、『ジョンとメリー』という映画あった。朝、起きたら同じベッドに寝ていた男女の一日を描いたやつで、最後に互いに相手の名前を聞くところで終わる。そいつをいただいて、ピンク映画を一本撮ったことがあるんだ。たしか『レモンSEX 激しい愛戯』(70)ってタイトルの映画だった。
この映画の撮影中に、前に撮った映画のギャラを受け取りにいったんだよ。スタッフにギャラを支払わないといけないからね。ところが、金は受け取ったんだけど、すぐに帰れなかった。オイチョカブやっていかないかと誘うんだ。
明日も撮影があるんだけど、これもつきあいだからそう簡単には断れない。そりゃあ、さっさと負けて帰ろうとは思ってたよ。そうしたら、欲のないやつは怖いねえ……。負けるつもりが、勝ったもいいとこ。勝ちに勝ったんだよ!
明け方、事務所に戻ってきたんだけど、今日のぶんのカット割りなんかまるで考えちゃいない。どうしようか。まあ、まずは寝ようと思ったんだが、「おはようございまーす」なんて早めに来るやつがいて、眠れやしないんだ。
その日は撮影の最終日で、『ジョンとメリー』みたいなラストシーンを撮る予定だった。ところが、午前中、撮影してみたものの、頭がモーローとして、リズムが出ないんだよ。それで昼食のときにチョクさん(山本晋也)に電話して、事情を説明した。
おれはチョクさんに、午後の撮影、かわりに監督してくれないかと頼んだ。そうしたら、「これからロケハンがあるから」って言うんだよ。「ロケハンなんていつでもできるだろ? おれんとこ来いよ」「そうはいかないよ、ナベさん。助監だって迎えに来るんだし」。考えてみれば、おれの言ってることはムチャクチャだ。で、「ごめん。悪かったな。今の話はいいよ」と言って電話を切った。
ところが、午後になって山本晋也が現場にやって来たんだよ。「やっぱり、ナベさんのことが心配になって」と言って、ロケハンをやめて来てくれたんだ。あのとき、おれにはチョクが神様に見えたね!
おれはラストシーンをまかせて、隣の部屋で寝た。「よーい、はい!」という声を聞きながら、いい気持ちで寝ましたよ! 「カット! OK、うふふふふ」なんて山本晋也はいつものように笑ってた。でも、おい、今の「うふふふふ」ってのは何だ? おれが撮ってたのはコメディじゃねえぞ……。
完成した映画はどうだったかって? これが、山本晋也の撮ったラストが良かったんだよ! おれよりうまい。自分の映画じゃないから、気楽に撮ったのがよかったのかな。あいつ、ラストシーンを停電って設定に変えてちゃってるんだ。で、ロウソクをともして、男と女が「かんぱーい!」と言って酒を呑む。それから、『ジョンとメリー』みたいに「ぼくは太郎」「わたしは花子」と自分の名を名乗るんだ。
けれどね、名前を名乗るところがいかにも山本晋也なんだよ。客観カットなんだ。試写のとき、あいつが撮ると、やっぱりあいつの映画になるなあ、とおれは思ってた。
山本晋也は「ナベさん、映画って結構つながるもんだね! うふふふふ」なんて笑ってたけれど。
2.山本晋也は全編客観カットだ
おれたちは会うと、映画の話ばかりしていた。おれがよく「映画的」「映画的」と言ってたから、山本晋也も「映画的」って言葉を使うようになった。「あの映画のあのシーンは映画的だよな」「うん、あれは映画的に通だよ」といったふうに。
ところが、「映画的」って言葉で一見、話は通じてるように見えるんだけど、撮る映画を見ると、何だか変なんだよ。頭のすごくいいやつなんだけど、おれの考える「映画的」と違う。
昭和42年(1967)頃に、何てタイトルだったか忘れたけど、チョクさんの映画で市川崑の『恋人』のストーリーをいただいたようなやつがあるんだよ。その中に、男が女を「生意気だ!」ってことで、パチーン!とひっぱたくシーンがある。そうすると、女がハッとなって、男に惚れる――昔の松竹大船調みたいなことをやりやがってと思ってたら、その後に万葉集みたいな字幕まで出てくるんだよ!
こりゃ、何て映画だ!と思っていたら、山本晋也は本気で撮ってるんだ。試写のとき、「ナベさん、結構、映画的だろ?」なんて言ってる。
その映画は潮来で撮影してるんだけど、渡し舟使って、「舟が出るぞー!」「おーい、船頭さん、待ってくれー!」なんて芝居も撮ってる。山本晋也にしてみれば、「渡し舟って映画的だろ?」ってことだ。そりゃ、映画的かもしれないけど、時代を考えろよ。現代劇だろ、これは……。
要するに、山本晋也の場合、映画的なものを撮れば、映画的なんだよ。時代なんか関係ない。でもね、その映画は古臭いことやってるんだけど、そうは見えないところが不思議なところなんだ。
『女湯・女湯・女湯』(70)もそうだよ。おれがよく山中貞雄の話をしてたから、現代劇なのに、主演の松浦康に三度笠に合羽なんて格好をさせるんだ。映画的に通だってことで。そりゃ、『女湯・女湯・女湯』はコメディだよ。でも、ケロッとしてああいうことをやってのけるのが山本晋也の凄いところだ。いくらコメディだからと言っても、おれには現代劇に渡世人の格好したやつなんか出せないよ。
そんな調子だから、山本晋也の映画はシリアスなやつでも、どこかおかしいんだよ。パクさん(小森白)はそのことがずっと気になってたんだろうな。パクさん、チョク、おれの三人で撮った『悪道魔十年』(67)というオムニバスのときもそうだった。山本晋也は現代劇なのに、役者に宮本武蔵みたいな格好をさせて、仏像の前で悟りが開けた!なんて芝居を撮っている。映画的だろってことで。
あるとき、撮影が終わって旅館に戻ると、パクさんが「ナベ、ちょっとおれの部屋に来いよ」と言うんだ。で、パクさんの部屋で呑んでいると、「ナベ、チョクの映画、どっかおかしくないか?」と訊いてくるんだよ。そーら、また例の質問が始まったと、おれがニヤリとしたら、パクさんに叱られたよ。「ナベ、なに笑ってんだよ。こっちは真面目に訊いてるんだぞ」
そういうわけで、おれも真面目に考えましたよ。で、前にも話したように、喫茶店でパクさんに同じ質問をされたとき、やっと分かったわけだ。山本晋也の映画は全編客観カットだ!と。
山本晋也はもとは岩波映画の助監督だったんだよ。羽仁進についていて、劇映画の演出ってものをあまり知らない。言ってみれば、ドキュメント出身なんだ。だから、アップも客観、フルショットも客観――全編客観カットの独特なドラマツルギーで山本晋也は映画を撮っていた。
普通、劇映画でアップを撮るときには、登場人物の思いや感情を考えて撮るだろう? ところが、山本晋也はそうじゃない。女が口をとんがらせて喋ったり、たらこを食うのに一生懸命だったりするのが見ていて面白いと、そういうのをアップで撮る。つまり、登場人物の主観に入るんじゃなしに、客観的に登場人物の個性を撮っていくんだよ。
そういうやつだから、人間の見方が他と違うんだ。たとえば、ダンナの葬式でおいおい泣く女がいるとしようか。そうすると、山本晋也はその女が泣いてる合間に「あの人は大食いだから注意してね」なんて言うのに、興味を持つんだ。だから、悲しいシーンがちっとも悲しくならない。山本晋也に喜劇を撮らせるとうまかったのは、全編、思い入れも何もない客観カットという撮り方と関係があると思う。
注:「山本晋也は個性を客観的に撮る」という指摘に関連するような山本晋也当人の発言があるので、参考までに引用しておきます。
「この間、加藤泰さんの『人生劇場』をしみじみ見た。ベッドシーンを見たとき、あれはわれわれの創世期だと思った。路加奈子、松井康子にかかれば同じことだよ。それも香山美子よりピンクの女優のほうがうまい。とくに芝居しなくたって時代を出す。この間、女の子が手帳開いて電話して「奥さんがそこにいるの」なんてやっている。「ジャバジャバのみたいの、そう、じゃいいわ」。また手帳開いて、「あんまり好きじゃないけど、今日はハゲにすっか」なんてやっている。そのときのうまさ。そのまま撮ったよ。悪い女なのかいい女なのかわからない。憎めない。相手の家庭を傷つけるつもりは全然ない。今日、ジャバジャバのみたいだけ。そのとき、これで映画を撮っていかないといかんと思ったね。新高恵子も城山路子もいないんだから」
座談会「渡辺護と山本晋也」『映画評論』1973年4月号(この座談会は『映画評論の時代』(佐藤忠男・岸川真編著、カタログハウス)に収録されています)
3.全編主観カットの小森白
山本晋也が全編客観カットだとすると、その対極にいたのが小森白だ。
おれはパクさんに言われたことがある。「ナベ、お前は簡単にひとを殺しすぎる」と。
言われてみると、パクさんの撮り方は違うんだよ。パクさんの映画で、これから殺される男が「穴を掘れ」と命令されるやつがある。お前の死体をその穴に埋めるってことだ。そうすると、パクさんは、レールをひいて、カメラが寄っては引き、引いては寄り……で、穴を掘る男をばかすかたくさん撮る。
パクさんは職人としていつも映画の商品価値ってことを考えているんだ。だから、ここで客は泣くと考えると、これでもかこれでもかと思い入れをこめて撮る。そのかわり、設定なんかを説明するシーンになると、シナリオをどんどん切っていく。必要な説明がつきゃそれでいいってことだ。つまり、パクさんは全編主観カットの映画を目指してるってことかな。
山本晋也の「全編客観カット」と小森白の「全編主観カット」――この二つに気づいてから、おれの演出は変わったと思う。それまで、おれは説明カットもきちんと撮らなくちゃと思ってたけど、パクさんのように切るようになったからね。
山本晋也の影響ってことで言うと、今度の『片目だけの恋』の佐々木日記のシーンなんかそうかもしれないね。
井上(田谷淳)が佐々木日記演じる少女とラブホテルに入るシーンがあるんだけど、そこでおれはベッドにバターン!と倒れこんでくれと言うつもりで、「ベッドに飛びこんでみようか」と言った。
そうしたら、あの娘は「せーの!」でジャンプしてベッドに飛びこむんだよ。プールに飛びこむみたいに! あんまりおかしいから、そのまんま撮った。あれなんか山本晋也流の撮り方だと思う。
4.「主観カット/客観カット」でおれの映画の見方は変わった
そういえば、主観カット・客観カットってことを考えるようになってから、おれの映画の見方は変わってきたね。
市川崑さんは山本晋也と同じ「全編客観カット」の監督だ。アップを撮っても主観に入らない。動きが面白いところをアップで撮る。たとえば、木枯紋次郎のふりかえり方が面白いと、そこをアップで撮るんだ。たぶん、そういう撮り方になるのは、劇映画の世界に入る前にアニメーションをやっていたからじゃないかと思う。
凄いのは、溝口健二と小津安二郎だよ。
溝口さんは1シーン1カットで撮っているけれど、その1シーン1カットの中に主観もあれば、客観もある。小津さんはと言うと、アップは撮らない。全部客観といえば、客観だ。でも、『晩春』のラストで笠智衆が一人きりでリンゴの皮を剥くところがあるでしょう? あそこは引いた画だけれども、主観なんだ。
つまり、溝口健二と小津安二郎の映画では、主観と客観が同時進行してるんだよ!
そのことに気づいたとき、おれにはとてもそんなことはできないと思ったね。それなら、どうしたらよいか?
おれは昔から好きだった黒澤(明)さんや伊藤(大輔)さんのように行こうと思ったんだ。主観カットと客観カットを組み合わせて映画を撮っていこうと考えたんだよ。
(続く)