長島良江への手紙(2)−矢部真弓『月夜のバニー』(『桃まつりpresents Kiss!』)について−(井川耕一郎)

矢部真弓さんの『月夜のバニー』は、歯みがきをしている美幸(藤田恵里沙)の姿が洗面所の鏡に映っているところから始まりますね。
そして、何者かが現れて、美幸の背後に立つのだけれども、
鏡に映るその人物の顔というか、頭部を見て、あっ!と声をあげそうになりました。
広い額に、落ちくぼんだ目……一瞬、骸骨が鏡に映っているかのように見えたわけです。
もちろん、それは骸骨などではなく、美幸の母親を演じている女性の顔なのですが、
それにしても、おそろしく存在感のある顔でしたね。
きっと、このひとは、美しい形をした頭蓋骨の持ち主にちがいない。


そういう顔をした母親が、娘の頬の肉をむりやりひっぱりながら、言うのですね。
あんた、人間らしく笑ってごらん。そんな暗い顔じゃ、誰にも愛されないよ、と。
これには、ちょっとぞっとしました。
美幸の母親の顔は、頭蓋骨むきだしみたいな顔、人間らしい表情なんてものを拒絶した顔なのです。
なのに、この母親はどうやら自分のことを人間らしいと思いこんでいる……。


二百本もの映画を撮った職人監督・渡辺護の名言に、
「スクリーンに演技力など映らない。スクリーンに映るものは役者の人柄であり、存在感だ」というのがありますが*1
『月夜のバニー』で美幸の母親を演じた矢部良子というひと(矢部さんのお母さんだそうですね。矢部さんはお母さんそっくりだ)を見ていると、本当にそうだと思いますね。
『月夜のバニー』というドラマを支えているのは、矢部さんのお母さんの存在感でしょう。
顔の素晴らしさはさっき書いたとおりですが、芝居に味があります。


近頃の自主映画を見ていて思うのは、出演している素人のひとたちが実にナチュラルな芝居をするなあということです。
けれども、これは芝居がうまくなったということではないと思うのですね。
ビデオで撮るようになって、自主映画の芝居の質が変わったということではないでしょうか。


二、三十年前の自主映画は、8mmフィルムで撮られていたわけです。
8mmの場合、たしかフィルム代・現像代合わせて、三分で二千円くらいかかっていたはずで、
そのせいで、8mmで映画を撮るという行為には、やけくそになって浪費を愉しむしかないような感じが常にともなっていました。
それから、カメラから聞こえてくるカタカタという音――あの音が、今まさに撮影が行われているんだ、とひとを緊張させるものだったのですね。
だから、8mmで撮られた芝居には、どこかせっぱつまった感じ、取り返しのつかない感じがつきまとっていたように思います。


矢部さんのお母さんの演技に話をもどすと、
あの瞬きの多さや、ある動作から別の動作にうつるときのぎこちなさは、ひどく緊張していることのあらわれですね。
けれども、今どき、ビデオカメラの前であれほど緊張できるのは、とても反時代的で貴重なことだと思うのです。
そして、そういう極度の緊張状態にあるひとが、じっと何かを見つめているときの顔ほど、恐いものはないでしょう。
矢部さんのお母さんが鏡に映る自分の顔を見つめているときや、TVに見入っているときの顔は、強烈な印象を残しますね。
それらの場面がドラマの中で特に重要というわけではないのですが、
今まさに取り返しのつかない決定的なことが起きているのだという感じがするのです。
まるで8mmカメラで撮ったかのような芝居になっているところが面白い。


『月夜のバニー』のさらに興味深い点は、
矢部さんのお母さんが発する取り返しのつかない絶望的な感じが、他の登場人物や風景にも感染して、映画全体を覆ってしまっていることですね。
数年ぶりに美幸の兄の博一が家に戻ってくるシーン――あのシーンで、玄関の前に博一が立った瞬間、ふいに日が陰る。
あの一瞬には、ぞくっとしました。
ああ、何か決定的なとんでもない事件が起きてしまうぞ、と誰もがあのときに予感してしまうはずで、
実際、このあと、美幸がひとりきりでいるときに、母が追い出したヒモの男が家にあがりこみ、美幸を犯してしまうことになる。
そして、博一は美幸を犯した元ヒモの男を呼び出して、殴り殺してしまうという展開になるわけですね。
短編作品としてまとめるために、博一が報復を決意する過程は省略されているけれど、
省略されていても、見ていて納得できる展開になっているのは、博一が家に帰ってきたときのあの一瞬の日の陰りがあったからだと思うのです。


元ヒモの死体を始末した博一は、真夜中、家に戻る。
すると、美幸が家の屋根にあがっていて、犬のように遠吠えをしている。
このときの美幸の遠吠えが実に素晴らしいですね。
本気で犬になろうとしている。だから、滑稽でありながら、ひどく哀しい。
そして、屋根から下りてきた美幸がガタガタ震えだすと、博一は妹の体を抱きしめる。
この瞬間もいいですね。一瞬にして、この兄妹のことが全部分かってしまう。
妹の美幸は兄が元ヒモの男を殺したことを知っている。
兄は前にも自分たちを虐待し続けた父親を殺しているのですが、
今度の殺害の動機がそのときとは異なることも妹は知っている。
博一は、妹が元ヒモの男に犯されたことを知ったとき、自分の中にある近親相姦的な欲望に気づいてしまったのでしょう。
そして、妹の美幸も自分の中に同じ欲望があることにうっすら気づきつつあるのではないか。
(おそらく、美幸が言葉を失ってしまったのも、その欲望と関係があるのでしょう)


博一は父親に虐待されていたときのことを思い出しながら、美幸に言います。
おれとお前は二人きりだった。おれがお前の血をなめたように、お前もおれの血をなめた……。
これはほとんど愛の告白に等しい台詞ですね。
それに対して、美幸は博一の手にキスすることで答える。
父親や元ヒモを殺害したときに兄が浴びたであろう返り血、妹の美幸の目にしか見えない返り血をなめて拭き取ろうとすることで答える。
このとき、二人は肉体の交わりをたくみに回避しています。
とはいえ、近親相姦の欲望が二人の中から消滅してしまったというわけではないでしょう。


数日後、兄の博一は自殺する。
博一にしてみれば、近親相姦を回避する方法はこれしかなかったということでしょう。
それに、ドラマをきれいにまとめることを考えるなら、
自殺した兄のことを思う美幸の後ろ姿を見せたところで終わるのが一番いいにちがいない。
ところが、『月夜のバニー』はそうしていませんね。
スタッフ、キャストの名前が出て、もうこれで終わりかと思ったところで、美幸の母親が映るのですね。
居間で頬杖をついてもの思いにふけっている母親の横顔。
すると、そこに何者かがやって来て、すぐ間近に突っ立つのですね。
母親はその何者かにちらっと目を向けると、すぐに目をそらして居間から出て行く。
たしかにそれを見ているはずなのに、まるで見なかったかのようなふりをして部屋を出ていく母親のこの芝居は、観客をひどく不安にさせますね。
で、居間にいたのは誰かというと、全身に返り血を浴びた博一で、
たぶん、父親を殺害したときと同じ格好をしているのでしょう。
要するに、美幸の中に潜む近親相姦的な欲望が、博一の幽霊を呼び寄せてしまったということでしょうか。


博一はしばらく居間にひっそりと立ったままでいるのですが、
妹の美幸はなかなか姿を現さない。
すると、博一がふいに自分の腕をかきむしりだすのですね。
肉体を持たないはずの幽霊が肉体を気にしてしまう――これほど哀しくて滑稽でぞっとすることはないでしょう。
これには、やられたッ!と思いました。
こういうカットを撮ってしまった矢部さんに嫉妬しますね。
ああ、自分もこんなふうにリアルに幽霊を描いてみたい。
本当にまいりました。


(粟津慶子『収穫』の感想に続く)