『それを何と呼ぶ?』について(長島良江)

「性のつながりに挫折した大人の女性2人が、お互いを求め合うが、挫折してしまう物語」
 たしかこのようなことを書き付けたメモを本棚に貼付けて、そこからずれないようにずれないように、と注意しながらシナリオを書きました。思い返してみると「挫折」と「大人」というのが私の中でキーワードとなっていたようです。
 誰しもが大なり小なりの挫折を経験したことがあるはずですが、「挫折」したことがある人間を描きたいと特に意識したのは、大なり小なりの経験の蓄積が発言や行動に大きく影響しているような人物(それは成熟した大人であると思いました)にその時興味を持っていたからです。そのような人物は、ある状況におかれた時にどのように考えどのように判断するのか。若さが持つ突発的な衝動やエネルギーといったものではなく、別のものが働くと考えました。ではどのような「挫折」に基づきどのような考えが働くのか。想像してもよくわかりませんでした。わからないけれども、主人公は「成熟した大人」でなければならない。かように私は核心となる根拠を欠いたまま、そのぼんやりした中心のまわりをグルグル回るようにして、なんとかその中心を描こうと四苦八苦していたのです。


 『それを何と呼ぶ?』のストーリーは、朝子が恋人の松岡に別れを告げる一部と、朝子が友人の藤子と共に暮らし始めて別れていく二部と、藤子が松岡に会いにいく三部、と簡単に説明することが出来ます。本棚に貼ったメモにもあるように、当初は朝子が藤子と暮らす為の一部と二人が暮らす二部までを考えていました。三部はいつの間にか生まれた自分でも思いもよらない展開で、書き上げた時私は驚喜しました。一部から三部へと話が進むにつれて、登場人物の発言と内面がどんどんずれていくと感じたからです。言外に意味を含むことは「成熟した大人」らしいかはわかりませんが、面白いと思ったのです。


二部の中で大人の女性二人がずっと一緒にいる/いないと言い争うのは、冷静に見たらとても滑稽だと思います。勿論、言い争う原因はそれまでの二人の関係や「挫折」の経験が要因ともなるので、苦さも混じります。滑稽と苦さ。この二つを含みたかった。具体的に朝子と藤子の二人が言い争う時、お互いにきつい言葉を投げつけ合えるのは、二人が深い信頼関係にあるからだと思いますし、信頼関係にあるもの同士のじゃれ合いでもあると思います。じゃれ合ううちに、取り返しのつかない地点までいつのまにか来てしまったのだと。投げつけ合うきつい言葉は「好き」という言葉に等しい。そんな夢想を抱いていました。


同じように、三部で藤子が松岡に投げつけるきつい台詞は、その言葉どうりの意味と同時に「あなたもまだ朝子を忘れてはいないでしょう?」と共感を求めているように感じられないかと思いました。藤子が松岡を責め続ける様は、共感を求める信号を送り続けているのと一緒で、松岡は信号を受け取ったから藤子を平手打したのだ、といった夢想を抱いていたのです。ここまで書いてはたと気付きました。相手の共感を得るために裏返しの言葉を発するというのは、まるで子供のようではないかと。「成熟した大人」を目指したものが、子供のような態度へと巡ってしまうのはなんとも皮肉ですが、私は言葉が二重の意味を持つこと、井川さんのご指摘にもあった「対人関係が白熱する」*1ことに夢中になっていたのです。


上記のように思い返すことは多々ありますが、もっとも気になるのは私の夢想は果たして作品を見て頂いた方々に少しでも伝わったのかということです。夢想は夢想の域を出なかったのか。そうであるならどうすれば夢想が夢想でなくなったのか、もしくはそんな夢想はろくでもないと捨ててしまうべきなのか、既に作品は完成し人目に触れ続けていますが、考えずにはおれません。


長島良江
1979年埼玉県出身。映画美学校第6期フィクションコース修了。映画批評家・安井豊が編集主幹を務める映画批評機関誌「シネ砦」に参加し、短評を発表している。過去監督作『さらば、愛しき女よ』(06)は『狂気の海』(07/高橋洋)公開カップリング企画「高橋洋セレクション“12+1”の大作戦」の中の一篇として08年にユーロスペースにて公開された。


『それを何と呼ぶ?』は、『桃まつりpresents kiss!』の一篇として、名古屋シネマテークで6月20日から22日までレイトショー公開されます。
詳しい情報は、名古屋シネマテーク公式サイトを御覧下さい。

 名古屋シネマテーク http://cineaste.jp/