渡辺護1931−2013(前)(井川耕一郎)



1931年3月19日東京生まれ。1950年、早稲田大学文学部演劇科に入学。その後、八田元夫演出研究所に入り、演出を学ぶ。テレビドラマの俳優、シナリオライター、教育映画・テレビ映画の助監督などを経て、1964年、ピンク映画界へ。1965年に『あばずれ』で監督デビュー。1970年頃からピンク映画を代表する監督として認められるようになる。現在、監督作品として確認できるものは210本ほどだが、実際にはそれ以上撮っていると思われる。主な作品に『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)、『(秘)湯の町 夜のひとで』(70)、『日本セックス縦断 東日本篇』(71)、『制服の娼婦』(74)、『痴漢と女高生』(74)、『谷ナオミ 縛る!』(77)、『少女縄化粧』(79)、『激撮! 日本の緊縛』(80)、『好色花でんしゃ』(81)、『セーラー服色情飼育』(82)、『連続殺人鬼 冷血』(84)、『紅蓮華』(93)などがある。2013年、新作『色道四十八手 たからぶね』の準備に入った矢先に倒れ、12月24日、大腸ガンで亡くなる。遺作は『喪服の未亡人 ほしいの…』(08)。


<少年時代:1931−1949>
1931年3月19日、東京府北豊島郡滝野川町に、渡辺恭三郎、ナカの第三子として生まれる(兄、姉、弟、妹の五人兄弟)。その後、一家は王子区豊島に引っ越す。渡辺によると、父・恭三郎の仕事は人入れ稼業。近所にあった築地館の経営に一時期(1939年頃〜42年)かかわっていたこともあった。
子どもの頃に遊んだ荒川周辺では、大都映画がよく時代劇の撮影をしていた。また、父と一緒に歩いた王子の三業地の雰囲気も忘れられないものだった。母・ナカは不良になるからと言って映画を見ることを禁じていたが、ただ見する方法を考えては映画館にもぐりこんでいた。
1941年、憧れの存在であった兄・優(まさる)が結核で亡くなる。東大美学美術史科の学生だった優は、将来、小説か映画の道に進みたいと友人に語っていたという。渡辺は兄が遺した映画雑誌などを読むうち、監督や脚本家などのスタッフや映画史を意識した映画の見方を身につけていく。
神田の錦城中学に入ってからは、軍国主義の風潮になじめないこともあって、学校をさぼって浅草の映画館に通うことが多くなる。この頃に見た映画で忘れられないのは、監督:衣笠貞之助・脚本:伊藤大輔雪之丞変化』(35)、監督:吉村公三郎『暖流』(39)、監督:伊藤大輔鞍馬天狗』(41)。
「戦争が末期になってきたときから、いわゆる名画座みたいなスタイルが出てきたんですよ。昭和10年(1935年)頃から14年(1939年)の、大東亜戦争始まるまでの映画ってのは、結構、日本映画、魅力あったんじゃないですかね。その昭和10年から14年ごろの名作を、おれは(昭和)19年(1944年)の一年で見たような気がするんですけどね。だからおれの映画はもうあの昭和19年に見た映画で、おれの監督の資質ってのはもう全部なんですよ」
1945年終戦。「正直言ってほっとした。おれは非国民だな」。1947、8年頃、幼なじみの高橋正夫(1952年、血のメーデー事件で亡くなる)に誘われ、北区労働者クラブの活動に参加。子ども会の芝居の演出をする。


<監督になるまで:1950〜1964>
1950年、早稲田大学文学部演劇科に入学(学費を使いこんでしまったため、卒業はしていない)。この頃、大映ニューフェイスに合格するが、軍隊のような雰囲気に嫌気がさし、数ヶ月でやめ、大学での演劇活動を経て八田元夫演出研究所に入る。研究所には後に声優になる近石真介、槐(さいかち)柳二らがいた。
戦前から体系的な演技論の必要性を感じていた八田元夫は、占領軍のCIE(民間情報教育部)の図書館で見つけたスタニスラフスキー・システムに関する論文を翻訳し、日々の練習に使っていた。渡辺は情緒的記憶や貫通行動などといった理論をたえず意識して演じることに窮屈さを感じてはいたものの、八田元夫のもとで学んだことはムダではなく、監督になってから「ああ、そうか!」と気づくことがあった、と語っている。
「役者がね、「こんな性格の悪い否定的な人間、どう演ったらいいんだ」みたいなことを言ったことがあるんですよ。そうしたら、八田元夫さんがさ、「自分がどういう人間か、よく考えてみろ。お前くらい、いやな野郎でくだらないやつはいないんだ。だから、この役をお前だと思え」みたいなことを言ったんですよ。要するに、自分の中にあるはずだと。その悪役が持ってる精神がね。それ聞いて、おれ、感心したことありましたよ」
1957年、山岡久乃の相手役として東芝日曜劇場に出る(岡本愛彦演出『髪の毛と花びら』)。以後、数本のテレビドラマに出演。だが、自分は役者には向いていないと考えていた。
60年代に入ってからは、シナリオライター(『特別機動捜査隊』、『若い炎』などのTVドラマ)、キャバレーのショーの構成・演出、教育映画・テレビ映画の助監督などをやるようになる。1964年、『無法松の一生』の撮影中、役者のスケジュールに関することで監督の土居通芳と口論になり、胸倉をつかもうとする相手の手をふりはらうつもりが、思いきり突き飛ばす結果に。渡辺はテレビ映画の現場を去ることになる。
仕事を失った渡辺に劇場用映画の助監督をやらないかと声をかけてきたのが、十朱久雄の弟・十朱三郎だった。助監督でついた作品は南部泰三『殺された女』。これがピンク映画界に入るきっかけとなった。
「あんまりその映画がバカバカしいから一本でやめようと思ったんですよ。だけどお金がいいんだよね。僕がチーフで6万もらった。当時、サラリーマンの課長クラスの月給が5万ぐらいだから、これは魅力ですよ。それに何たってピンクはキャッシュでくれるからね(笑)。で、その次は自分で脚本書いちゃったわけ。最初のがあんまりひどい映画だったからね。そしたら、ホン代と助監督で10何万なんだよね」(梅林敏彦『荒野を走る監督たち シネマドランカー』北宋社・1980年)


<新人監督:1965−1968>
1965年、扇映画プロダクションの斉藤邦唯は、南部泰三の現場で知り合った渡辺にピンク映画が撮れる監督の紹介を求める。渡辺は助監督についたことがある西條文喜を推薦し、少年時代に見て感激した『雪之丞変化』をヒントに少女の復讐もの『あばずれ』を企画(脚本は吉田義昭が執筆)。だが、西條は他の仕事が入って撮れなくなってしまい、渡辺が『あばずれ』を監督することになる。
監督デビュー作『あばずれ』の撮影は竹野治夫、照明は村瀬栄一。撮影所出身のベテランスタッフだった。
「一本目はそういうわけで、画としてはメジャー級だったらしいんですけどね。そういう意味ではラッキーだったって言えばそうだけど、俺が作ったって言えるのかなぁ(笑い)。スタッフが決まった時からそういうクラスになってる訳で、俺の力じゃないんだよね。よく夜のシーンをツブシって言って昼に撮ったりするんだけど、竹野さんはツブシは一切やらないんだから。自分で大きなライトを持ってきて、キッチリ、セッティングしてね。女優の左京未知子が、「やる気になるわぁ〜」なんて言ってたよ。初号で、映倫が「ピンク映画もここまで来ましたか」って握手したもの」(『現代映像研究会会報』第7号・2001年)。
渡辺は『あばずれ』を含む初期の九本の映画を扇映画で撮る。
1967年、『情夫と情婦』の準備中、予定していた配給会社が倒産してしまう。渡辺は伝手を頼って小森白のもとを訪れ、彼が社長をやっている東京興映で配給を引き受けてほしいと頼みこむ。完成作品を見た小森は渡辺の演出力を高く評価し、東京興映の専属監督になるように誘う。渡辺にとって、ピンク映画界では大手の東京興映に入ることはうれしい話だった。さらに渡辺は小森の「もう一人、商売になる監督がほしい」という要望に応えるため、山本晋也を日本シネマから引き抜き、『知りたい年頃』(67)の製作を担当する。
東京興映でなければできない映画として、小森白・山本晋也渡辺護の三人で監督する『悪道魔十年』(67年)、『密通刑罰史』(68年)を企画。だが、小森白がある女優が流したデマを信じて急に自分を遠ざけるようになったと感じた渡辺は1968年に東京興映を離れてしまう。このとき、ピンク映画をやめて教育映画にもどることも考えたという。1966年、『のたうち』を撮ったあと、助監督の沖島勲に一度だけもらしたことだが、渡辺はデビュー作『あばずれ』を超える作品がなかなか撮れないと悩んでいたのだった。


<主観カット/客観カット>
1968年の一時期、渡辺は仕事をせずに映画館でピンク映画を見続けたという。そのときにひらめいたのが「主観カット/客観カット」理論だった。
「ふっと気がついたのが、山本晋也の映画はアップに入っても客観カットだと。それが分かったんですよ。あいつの演出は主観じゃなくて、全部(ものごとを)客観的に見て撮るんですよ。それで今度は小森白さんの映画を見たんですよ。どっちかというと、おれはパクさんの映画を古くさいと思ってた。だけど、見ていたらね、説明カットは単純に早い。説明を聞いたら、パーン!と切っちゃう。それで、山場が来ると、寄り、引き、移動――延々とその芝居を押していくんですよ。そうすると、お客さんもそこでのると。小森白さんの場合は、全部主観カットになるんですよ、(山本晋也とは)逆に」
渡辺は「主観カット/客観カット」理論を今まで見てきたさまざまな映画にもあてはめて考えてみる。
「主観カット・客観カットってことを考えるようになってから、おれの映画の見方は変わってきたね。市川崑さんは山本晋也と同じ「全編客観カット」の監督だ。アップを撮っても主観に入らない。動きが面白いところをアップで撮る。たとえば、木枯らし紋次郎のふりかえり方が面白いと、そこをアップで撮るんだ。たぶん、そういう撮り方になるのは、劇映画の世界に入る前にアニメーションをやっていたからじゃないかと思う。
凄いのは、溝口健二小津安二郎だよ。溝口さんは1シーン1カットで撮っているけれど、その1シーン1カットの中に主観もあれば、客観もある。小津さんはと言うと、アップは撮らない。全部客観といえば、客観だ。でも、『晩春』のラストで笠智衆が一人きりでリンゴの皮を剥くところがあるでしょう? あそこは引いた画だけれども、主観なんだ。つまり、溝口健二小津安二郎の映画では、主観と客観が同時進行してるんだよ!
そのことに気づいたとき、おれにはとてもそんなことはできないと思ったね。それなら、どうしたらよいか? おれは昔から好きだった黒澤(明)さんや伊藤(大輔)さんのように行こうと思ったんだ。主観カットと客観カットを組み合わせて映画を撮っていこうと考えたんだよ」(『片目だけの恋』公式サイトのインタビュー)
夏目漱石『文学論』のF+fを思わせる「主観カット/客観カット」理論は、『あばずれ』を超える作品がなかなか撮れないという渡辺の悩みを解決するきっかけとなった。「山本晋也が客観カットだと、パクさん(小森白)の場合は全部、主観で攻めていくというのを知ったときにね……、あ!そうか!と思ったときには感覚的に自分の現場行くときの感じはずいぶんちがってきた。それから、なんかね、「あ、おれは撮れる!」っていうね、「おれは面白い映画が撮れる!」っていう自信みたいなものが出てきたですね」


<売れっ子監督:1969−1976>
「ボクは地味な方だが、一つの姿勢というか自分の方向を安易に妥協してしまうのがキライだ。妥協してしまえば、スムーズに行くことはわかっているけどダメなんだな。だから手を抜いた仕事はできない。主張は通す主義だ。だから他の監督のように忙しくはない」(「脱がせ屋の素顔(10)渡辺護監督 悪を追求し続ける善人監督」『月刊成人映画』第46号・1969年11月)
たしかに1968年までの渡辺の監督本数は年に5、6本と多くはない。だが、1969年は10本、以後、「五社でも通用する技巧」(『月刊成人映画』第46号)が認められ、年に12本以上の映画を撮っていくことになる。
1970年、渡辺は大和屋竺の脚本で二本の映画を撮る。一本目は女ヤクザ・弁天の加代の活躍を描いた『男ごろし 極悪弁天』(69)の続篇・『おんな地獄唄 尺八弁天』。
「大和屋ちゃんの書いてきたホンを初めて読んだときにはふるえたね。『尺八弁天』は俺へのラブレターですよ。いい台詞ばかりだし、主人公のまわりのキャラクターもいい配分で書けている。山中貞雄の時代劇の粋さに負けていないと思った。どうしてもやりたいから、俺は予算オーバーを覚悟で撮ることにした」「『尺八弁天』は小川徹加藤泰に見るようにすすめたんだよ。加藤泰さんは、かなわないな、と言ったそうです。かなわないなっていうのは、緋牡丹博徒のホンは『尺八弁天』にかなわないなってことだと思う」(「『おんな地獄唄 尺八弁天』を撮り終えたくなかった」『ジライヤ別冊 大和屋竺』・1995年)
二本目は温泉街に流れついたエロ事師たちを描いた『(秘)湯の町 夜のひとで』。
「(衰弱した雀が川原で死ぬラストシーンで)顔がぽちゃん(と水につかる)。水が冷たいんだな。でも、キャメラマンが偉いよ。池田(清二)は水からキャメラ引いて撮ったからねえ。分かるんだねえ、監督がのってると。助監督の稲尾(実)、キャメラの池田――あのときのわたなべぷろってのは、スタッフがすごかったねえ。今思うと懐かしいっていうか、一番いいときだったかもしんないなあ。いやあ、意識してたわけじゃないけど、今思うと、呼吸がものすごかったねえ。どんどん引っ張っていかれたですよ、スタッフに」
映画芸術』は1970年11月号で『(秘)湯の町 夜のひとで』を取り上げ、シナリオと二つの批評、そして渡辺のエッセイ「何が難しいことだって ピンク監督の弁」を掲載した。
この頃、渡辺は主に関東映配配給の映画を撮っていたが、山本晋也が間に入って小森白との関係を修復、ふたたび東京興映でも撮るようになる。
1971年、東京興映の大作『日本セックス縦断 東日本篇』をまかされた渡辺は、高校生が悪さをしながら旅する映画をつくろうと考える。ところが、シナリオがなかなか完成せず、クランクインの日が迫ってきてしまった。そんなとき、大久保清逮捕の新聞記事を読んだ渡辺は企画を変更し、事件ものでいこうと考える。
大久保清は八人の女性を殺害した疑いがかけられていたが、渡辺が下田空にシナリオを頼んだ時点ではまだ否認していた。そこで映画では大久保清が犯罪に走るまでを描くつもりでいたのだが、クランクイン直前に八件の犯行を自供。小森白は群馬の旅館に電話をかけ、到着したばかりの渡辺に「八人の女性殺害を全部撮れ」と命じる。渡辺は下田空と小栗康平にシナリオの書き直しを頼み、翌日からシナリオなしでも撮れる部分から撮ることになる。
映画は大久保清逮捕から二ヶ月後の七月に公開され、大ヒット。『週刊読売』1971年7月30日号に「“大久保の実演”をピンク映画にしたスゴイやつら」という記事が載るほどだった。渡辺は「映画はどう撮ったってつながる」という発見があったことがこの映画の収穫だったと語っている。
1971年は日活がロマンポルノの製作を開始した年でもあった。
「ボクたちはこれまで映倫に遠慮してセックスシーンは、ある一線を超えないように撮ってきた。でも、日活のポルノ映画をみて態度を変えることにしましたよ。ボクらが“遠慮”してたところを、日活はかなり大胆に撮っているんですね。もう黙っているわけにはいかない。やりますよ。徹底的にファックシーンを撮るし、負けられません」(「話題の新作「男女和合術」下田ロケ・ルポ 渡辺護監督、「エロ事師」で日活ポルノへ果たし状」『月刊成人映画』第72号・1972年1月)
だが、ピンク映画の製作条件は年々悪化。1973年に小森白はピンク映画に見切りをつけ、東京興映をたたみ、映画界から引退してしまう。1972年から76年にかけて、渡辺は製作・大東映画(関東映配が製作専門のプロダクションとなって改称)、配給・大蔵映画のピンク映画を何本も撮っているが、その中には大阪ホステス殺人事件を描いた話題作『十六才 愛と性の遍歴』(73)や、渡辺自身が代表作としている荒井晴彦脚本の『制服の娼婦』、『痴漢と女高生』(ともに74)などがある。
「これ(『制服の娼婦』)見て、みんな泣いたからねえ、初号のとき。ゴールデン街の荒井の友だちがみんな見に来て、(試写室が)満員になっちゃったんだよ。で、終わったら、(見に来た連中が)「荒井、泣けちゃったよ」「荒井、やったね!」って言うから、あれ、監督はおれなんだけど……(笑)」
また、1975年には谷ナオミの事務所にいた東てる美を見て、「この子はスターになる!」と確信し、主演作『禁断 性愛の詩』(75)を撮っている。
わたなべぷろだくしょんが「門前忍」という変名を使うようになったのは1971年から。この名前で監督したのは、渡辺、山本晋也、栗原幸治の三人である。
1972年に声優の渡辺典子と結婚。(続く)