大和屋竺『荒野のダッチワイフ』論(小出豊)

井川さん
こんにちは。
唐突ですが、
『荒野のダッチワイフ』の主人公の殺し屋は、目が見えないのではないではないでしょうか?
 彼は、雇い主から女性が陵辱されているフィルムを見せられ、「さっぱり見えねえな」と云っています。また、直後に「ひでえ雨降りだってんだよ」とその理由を述べていますが、その映像はすり切れて雨が降っているように見えるものの、何が映っているのかわからないほど痛んではおりません。また、町中でいきなりチンピラ風の尾行者をひねりあげた彼が、マッチにどんな絵柄が書かれているのか云えと強要する様は、盲人が目の前に広がる景色を云って聞かせてくれと人に頼むのとそっくりです。あるいはまた、このように見ることに失調をきたしている彼は、生きている人間が決して見られるはずのない、自らの死体を幻視したりもします。そのシーンは、<彼が足下に視線を送る>/<自分の屍骸が床に転がっている>/<彼が何かに視線を送っていた>というように、いわゆるマッチ・カットでつながれ、あたかも彼が足下に倒れた自らの死体を見ているかのようになっております。
つまり彼は、現実にあるはずのものが見えず、その代わりになにか別のものを見ているようです。
 そして、主人公の殺し屋が自らの死体を幻視するマッチ・カットからわかるように、『荒野のダッチワイフ』において、現実界と、(妄想や回想や幻想という現実とは別の)異界との境は、「見ること/見られているもの」という関係の間に現れているようです。殺し屋は、その間に一瞬現れたなにかにより視線を屈折され、その先に異界というものを垣間みるのだと思います。彼の言葉を借りるなら、一瞬現れるそのなにかとは銃を発砲した際に「銃身にのぼるカゲロウ」のようなものなのでしょう。
 また、夜の街で客引きをしていた娼婦が、殺し屋とその仇敵のナイフ使いに「似たり寄ったりの虫けら!あいつもあんたも双子みたいに同じなんだ!お笑いだよ!やることも同じなら、喋ることも同じ!」と叫ぶように、この映画における人物たちは台詞や身振りを互いに模倣しあうのですが、「見ること/見られているもの」の間に穏当な関係を取り結ぶことができないのは、どうやら主人公の殺し屋だけの特権的な身振りではないようです。
先の台詞を発した娼婦も、そういった振る舞いをしているのではないでしょうか。
 午前3時、ナイフ使いらが殺し屋と娼婦の寝込みを襲いにホテルの扉を開きます。そのシーンは、<ナイフ使いらが急襲してくる(彼らはストップモーションを擬態している)>/<視線をフレームの外に向ける娼婦のバスト・ショット>のカット・バックが数回続き/続いて画面が黒くなり/次のカットではいきなり<真っ昼間の町並み>に画面は飛んで、現実とは別の世界が広がり出します。そこでは現実とは逆に、主人公が仇敵のナイフ使いを殺し、復讐を果たすと いう出来事が起こり/その後、<めくるめく白光>とともに現実にもどり/<娼婦が何かに視線を送っていた>というカットのつらなりになっております。つまり、それは、(異界のパートが長いために少しわかりづらいのですが)自らの死に様を幻視した殺し屋のシーンとほぼおなじアイライン・マッチでつながれているのです。
 とすると恐らく、その真っ昼間の町並みの後に続く映画中盤の異界の出来事は、主人公の殺し屋の妄想と広く流布しておりますが、そうではなく、それは現実(<ナイフ使いらが急襲する>)を見ていた娼婦がある一刹那を経て、異界を垣間見たものと見なすことが出来るのではないでしょうか。そして、現実界から異界への移行を引き延ばしたものが、<見ている娼婦>/<ナイフ使いらが急襲する>のカットバック/、続いて<ナイフ使いらが急襲する>カットがブラック・アウトしていくという一連の流れなのだと思います。よく見ると、<見ている娼婦>の間に挟まれている<ナイフ使いらが急襲する>カットは、最後のブラックアウトに向けて、次第に暗くなっていっているのです。つまり、そこは娼婦の視界の先からだんだんと現実が暗く消えていく様が描かれているのです。だから、<ナイフ使いらが急襲する>カットは、一般には「ストップモーション」を擬態して、時間の静止を表しているように解釈されていますが、そうではなく、実は、わずかではあるが確実に動いている時間の推移を表すために、「スローモーション」を擬態しているのではないでしょうか。不安定な姿勢を保ち続けようとする彼らがどうしても静止し続けられずに少しばかり揺れ動くのを、撮影時の苦労を推し量ったりしながら微笑とともにやり過ごすのではなく、その微動こそ見るべきものとしてわれわれの前に差し出されたものなのだと思うべきなのでしょう。
 さらに付け加えると、シナリオにおいて、殺し屋の回想または幻想は必ずそれだとわかるようにト書きされておりますが、多くの人が殺し屋の妄想と思っているパートの1部分にしかそのようなト書きはされておりません。ということは、ト書きに殺し屋の幻想(あるいは回想)と書かれていない他の大部分は、殺し屋とは別の誰かに帰属する妄想であるという可能性がさらに大きくなると思います。
 主人公の殺し屋が現実にあらざるものを見る頻度が多いばかりに、その行為を彼の特権と考え、今回もまた異界へと視線をのばしているのが彼だと妄想しがちですが、かように、映画の定型に則ってその像の連なりを愚直に解読していくと、ぼくには、それが娼婦が見たものだと思えてならないのです。
長くなりました、最後まで読んでいただいてありがとうございます。そろそろ筆をおこうと思います。失礼致しました。
小出豊


(この批評は、昨年七月のシネマアートン下北沢大和屋竺作品集」のトークショー大久保賢一・井川耕一郎)のときに配布された資料からの再録です)


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