11日(月)のトークショーのゲストは……

6月11日(月)のトークショーのゲストは、『寝耳に水』に出演した長宗我部陽子さんと、映画監督の鎮西尚一さんです。
鎮西尚一監督のプロフィールなどは以下のとおりです。


<新・日本作家主義列伝VOL.7 映画100年記念火星番外地篇 鎮西尚一特集(1995年5月・アテネフランセ文化センター)のチラシより>

鎮西尚一:1957年鹿児島県奄美大島生まれ。中央大学文学部フランス文学科を卒業後、イメージフォーラム附属映像研究所、劇団「転位21」を経て映画界入り。廣木隆一水谷俊之、小水一男らの助監督を務めたほか、黒沢清監督『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の追加撮影に参加した。ポスト構造主義の思想的展開からインパクトを受けつつ、日本映画へのゴダールの導入を継続して、常に超=前衛に位置しつづけている。


『ヘビーSEX87 感度良好』(86年)
出演:木築沙絵子、渡部篤郎、佐野和宏
ある盗聴テープをめぐって次々と殺し、拷問、レイプが起きる陰謀劇が、藪から棒にぶっきらぼうにいいかげんに展開する。夜道を走って逃げれば、とんでもない方向から銃弾が飛んでくるし、拷問の道具は綿菓子を作る機械(?)みたいだし、ヒロインの木築沙絵子は陰謀なんか関係ないと言わんばかりにあっけらかんと軽いし、まったくこの驚き呆れた出鱈目さはどうしたことだ? 鎮西尚一はデビュー作から創造的な混乱を生きている。(井川耕一郎)


『パチンカー奈美』(92年)
脚本:塩田明彦 出演:青山知可子、寺田千穂広田玲央名
人気OVシリーズの第一作。パチンコ狂でもないのに、なぜか滅法パチンコに強い奈美が、勝負を挑んでくるパチプロたちをあっさり倒していく出だしからして快調だ。唐突に画面に映る海辺に築かれたパチンコ台の山は、彼女に敗れたパチプロたちの墓なのか。最強の敵との火花の散る戦いでは、字義通り二人の間に火花が散る! 「匙を投げた」と脚本にあれば、平気でスプーンを放るカットを撮ってしまいそうな鎮西の分裂症的演出に注目。(井川耕一郎)


『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(94年)
脚本:井川耕一郎 出演:冴島奈緒、多比良健
画期的な新作ランジェリーの開発に没頭する男たちとセクシーな新任女課長の交流を描く艶笑コメディ。冴島奈緒扮する女課長が欲望の赴くままに好き放題やらかすと、なぜか周囲を人間がみな幸福になるという人を喰った物語展開が笑わせる。春風の命じるままに窓辺で男がをくわえこんだ冴島が、ゆらめくカーテンの向こうにふと青く晴れ渡った空を見出す場面の乾いた叙情も忘れ難い。鎮西の演出ぶりはまるで水を得た魚のように軽快だ。(塩田明彦

『カポネ大いに泣く』(鎮西尚一)

 鈴木清順の『カポネ大いに泣く』はオープニングからして、実にワンダフルな映画だ。あの昔のニューズリールに映っている遊園地のグルグル回る円盤や飛行機の曲乗りは、まったく純粋に無意味な運動であるところが、すばらしい。『カポネ大いに泣く』のワンダフルさは、これにつきる。無意味な運動をすること、つまり、「怠惰」であることのすばらしさが、この映画のすべてだ。
 実際、この映画に出てくる人間は、何一つ建設的なことをしない怠惰なやつらばかりだ。沢田研二はロッキングチェアにだるそうに座っているだけだし、田中裕子は意味もなく車を横転させて(だが、その派手な横転ぶりがワンダフルだ)死んでしまうし、萩原健一浪花節にうつつをぬかして、生活しようとしない。できれば、自分もああいう怠惰でワンダフルな生活を送りたいものだ。
 だが、はたしてこれは「歌う日本映画」なのだろうか。『東京流れ者』はまちがいなく「歌う日本映画」だったが、これはちがう気がする。確かにショーケンは劇中で何度か浪花節をうなっている。だが、毎度、場違いで素頓狂なものだから、人を途方に暮れさせるばかりだ。きっと鈴木清順は脚本に浪花節と書いてあるから撮っただけで、本当は、そんなもの、どうでもいいと思っていたのだろう。まったく怠惰でワンダフルな人だ。
 ところで、私が最も怠惰でワンダフルだと思った瞬間は、映画の前半、暑さをしのぐためにホテルのテラスにいる沢田研二と田中裕子をとらえたカメラが、不意に横移動し無人の駅舎を映した瞬間だ。このカメラの無根拠な移動は余りに暴力的に怠惰で見る者すべてを泣かさずにはおかないだろう。とにかく私は泣いた。要するに私の結論は、『カポネ大いに泣く』は「歌う日本映画」ではないが、実に怠惰でワンダフルであったということなのである。


(このエッセイは、『唄えば天国・地の巻』(メディアファクトリー)からの再録です)

鎮西尚一『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』(井川耕一郎)



 鎮西尚一の代表作。「河童みたいな俺だけど」だとか「水陸歌合戦」だとか「ジャングル娘」だとか、タイトルからして人を食った劇中歌が申し分なくいい。こんな歌、人間がうまく歌えるはずがないではないか。
 だが、役者たちはそれらを半ば途方に暮れながらも真剣に歌い踊ってしまう。これには本当に脱帽した。何の必然性もなく唐突に学芸会が始まってしまったことの悲劇。これこそがこの映画の一番の魅力だ。つまり、『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』はミュージカルではなく学芸会映画であるところが素晴らしい――というふうに以前は考えていたのであるが、さて、今回、ビデオで見直して、私はある役者に注目した。テニス部の顧問の先生を演じている加藤善博。たしかに広田玲央名加藤賢崇も鎮西の映画にふさわしい演技をしていて素晴らしいのだが、しかし加藤善博の単刀直入でぶっきらぼうな存在感は、それ以上なのではないか。
 私が思うに、加藤善博はこの映画の中でたった一人、学芸会ではなくミュージカルを目指しているから凄いのだ。たとえば、彼はテニス部の生徒たちに突然、「俺はお前たちを管理しない」と宣言して以降、ことあるごとに「俺は自転車を管理しない」「俺は猫を管理しない」と言い放つ。この言い放ち方は台詞を言うというよりは、歌っているという方がぴったりだと思う。だが、彼の最高の演技は、西野妙子の継母を演じる広田玲央名に出会った瞬間だろう。彼は旅館の窓を大胆にもまたぎこして、広田玲央名の前に突っ立つなりこう言うのである。「失礼ですが……、素晴らしい方だ!」まったく驚き呆れた演技である。だが、ミュージカルとは恋と歌と踊りだと定義するならば、この瞬間には何故だか音楽ぬきでミュージカルの三大要素がそろうという奇跡が起きているのである。と言うわけで、今の私はこの映画についてこう断言したい。失礼ですが、素晴らしいミュージカルだ。


(このエッセイは、『唄えば天国・地の巻』(メディアファクトリー)からの再録です)