遠山智子『アカイヒト』について(井川耕一郎)

『アカイヒト』は、遠い昔、アジアのどこかの小国で、伝説を題材にして作られた映画みたいですね。
日本語字幕のついたフィルム断片が、最近、田舎の土蔵の中から発見され、
フィルムセンターが復元しました、
と言ってもおかしくないような感じです。


ところで、『アカイヒト』のあらすじは、
「昏睡の続く妹、園(ソノ)を捨てるために、“世界”へやって来た兄、九地(クチ)。
とある宿で、二人は束の間、最後の日々を過ごすはずであった。
しかし、宿の使用人、御項(ゴウナ)が園を見初め、
森に住む女が九地を見初め、
園が“世界”を追放されつつある青年を見初めたことから、
“世界”の秩序は少しずつ崩れ始めていく。」
となっていますが、
もうちょっとくわしいあらすじはないのでしょうか。


『アカイヒト』を見た記憶に頼ってあらすじを書いてみると、
大体、こんなふうになるのですが……。


兄の九地は病気の妹・園を抱いて旅に出た。
洞窟だか宿屋だか分からないところに泊まる二人。
食事をすませたあと、妹はお椀を返しにいくふりをして外に出る。
どうせ捨てられる身なら、
自分から姿を消そうということなのかどうか分からないけれど、
妹は森の中に入っていく。


翌日、兄は妹を探しにいくが、疲れて砂浜で眠ってしまう。
すると、兄を後ろから抱きしめる女が。
女は兄に、わたしのお婿さん、と呼びかける。


一方、妹の園は森の中でひくひくと脈打つ樹と出会う。
樹は園に語りかける。ここにいてはいけない、と。
園は宿屋に戻るけれど、
そこには兄はいなくて、黒マントの少年がいた。
少年のうなじには罪人の徴みたいなものがついているが、
園は少年と一夜をともにする。


翌日、黒マントの少年は園を残して、ひとりで旅に出る。
だが、荒野を行く少年は、三人の男たちによって埋葬されてしまう。


それからどれくらい時間がたったか分からないけれど、
黒マントの少年が埋葬されたあたりを、白い服を着た少年が通りかかる。
白い服の少年は地面からいきなり生えている奇妙な花をつむと、
その花の声を聞こうとして耳の近くまで持っていく。
すると、白い服の少年は、ぼんやりとではあるけれど、園の顔を幻視してしまう。


ところで、園はというと、森の中をさまよっているところだった。
彼女は森の中で女に養われている兄の姿を見てしまう。
「ありがとう。さようなら」と遠くから兄に向かって呼びかける園。


園は脈打つ樹があるところまで行くと、そこに横たわる。
すると、いろんな色のついた雪がゆっくりと降ってきて、園を埋めてしまう。

翌朝、目覚めると、園は草原の中にいる。
園は立ち上がると、草原の向こうへと歩きだしていく……。


こうやって『アカイヒト』のあらすじをまとめてみると、
妹・園が兄・九地への愛をあきらめるために、
兄のかわりとなる恋人を求める話、というふうに見えてきます。
結局、黒マントの少年は園の恋人になることはできなかった、ということでしょうか。
そうなると、白い服の少年は何だったのだろう?


白い服の少年は奇妙な花をつんで、それを耳のそばまで持っていく。
たぶん、花は黒マントの少年の遺体から残留思念を吸い取っていて、
園のことを白い服の少年に語りかけたのでしょう。
けれども、気になってしまうのは、
その後の、白い服の少年が幻視してしまう園の顔です。
あのピンボケの園の顔のアップはすごい。
間近からふいに見つめられてしまったような驚きを感じてしまう。


ひょっとしたら、幻視したのは、白い服の少年だけではないのかもしれません。
園もまた、あの瞬間、白い服の少年を幻視してしまったんじゃないか……。
そう考えると、
『アカイヒト』のラストは、園が一瞬だけ見えた未知の恋人を探しに旅立った、
ということになるのでしょうか。


『アカイヒト』には、よく分からないけれど、何だか気になってしまうところが多いですね。
タツムリが何度も出てきて、それがだんだんとエロチックに見えてくるのだけれど、
一体、カタツムリは何だったのだろう?


それから、荒野を行く黒マントの少年がお椀の中をのぞきこむと、
足のはえた唐傘が三つ、くるくる回っている……。
これも気になりますね。
笑ってすますことができない、ぞっとするところがあって。


くるくる回るといえば、
黒マントの少年がひとりで荒野へ旅立ったあとだったか、
園が小さな男の子に添い寝している姿をカメラが回転しながら撮っているところがあったけれど、
あれも何だったのだろう?


黒マントの少年とか、白い服の少年とか、
ついつい「少年」と書いてしまいましたが、これも気になりますね。
というのも、兄の九地は鋭い目つきの「青年」という感じのひとだったから。
九地に比べると、
黒マントの少年も、白い服の少年も、顔つきが若いというか、あどけない。
園は少年だった頃の兄に似たひとを探し求めようとしているのでしょうか。


タツムリをとらえたカットを見ていると、そこに二つの運動を感じてしまいます。
まっすぐに進もうとする動きと、ぐるぐるとうずまく動き。
園は兄への愛をあきらめて先に進まなければいけないのだけれど、
どうしても少年時代の兄のことを思い出してしまう。
そういう園のあり方がカタツムリに反映しているように見えないこともない。
でも、やっぱり、これは単なるこじつけでしかならないでしょう。
『アカイヒト』は、見る人をとりとめない解釈の迷路へと誘う謎めいた映画です。


そういえば、タイトルが『アカイヒト』となっているけれど、
誰がアカイヒトだったんでしょう?


(この感想は、『狂気の海』公式サイトのコメント欄に書いたものの再録です)

西尾孔志『ナショナルアンセム』について・1(井川耕一郎)

『ナショナルアンセム』には50人近い人が出演しているという。
とにかく、新たな登場人物が次々と出てきて、顔がおぼえきれない。
今、画面に映っているこの人は、前のあのシーンに出ていた人と同じ人なのかな?
なんて考えながら見てしまうから、
あらすじも何が何だか分からなくなってしまう。
でも、なぜだか見入ってしまう。
ずっと見続けていたいと思ってしまう。
それはなぜなのか?


映画が始まってすぐ、
自転車の後ろに立った姿勢で乗っている女の子がちらっと後ろをふりかえる。
その一瞬見えた顔に、おや?と思ってしまう。
何だか気になる顔だ。


次にその子が登場するのは病院で、
診察室にしてはやたらと広い部屋の真ん中に置かれたオフィスチェアに座っている。
さっき「女の子」と書いてしまったのは、
髪を二つに結んでいる様が子どもっぽく見えたからで、
本当はもうちょっと年は上なのかもしれない。
とにかく印象的なのは目だ。
ちょっとつりあがった大きな目、アーモンドを連想させる目で、
モジリアニなら、彼女をモデルにして絵を描きたくなるだろうな、などと思ってしまう。


あとになって、「まち子」とひとから呼ばれるその子は、
膝の上に行儀よく手を置いているのだけれど、
オフィスチェアをだらしなく回転させながら、そっと小声で話しだす。
「伝染病なんですよね……そのうち、町に広まって……死んでしまう、みんな……」
まち子はそこまで言うと、前をじっと見つめる。
画面には映っていないけれど、彼女の正面に医者がいるのだろうか。
そんなことを思っていると、
ふいにまち子の背後のドアが開き、医者が入ってくる。
さっきまで誰かいるように感じられた画面外の空間には誰もいなかったのだ。


イスに座った医者はまち子にいろいろと話しかけるが、
まち子は何も答えない。
ただそれだけのカットなのに、
私たちはまち子のことをあっという間に理解してしまう。
彼女が心を病んでいることを。
心を病んでいるのを自覚してはいるが、
自分にとり憑いた妄想を追い払えないでいることを。


この時点で、私はまち子の顔にかなり心を奪われてしまっている。
カメラはもうちょっと彼女の顔に寄った方がいいんじゃないか、
などと考えだすようになってしまっている。
すると、姉と住むアパートのシーンで、まち子の横顔がアップになる。
画面の左半分にまち子の横顔が大きく映り、
右半分の空間の奥の方に彼女の姉が立っているという大胆な構図。
だが、見ているうちに、
面白いけれど、これは、ちょっと、と思ってしまう。
まち子の口もとが映っていないことが気になるのだ。
あのアーモンドのような大きな目は、小さな口もととの対比で生きてくるのではないか……、と。


ところが、その後の川原のシーン。
まち子は姉がこぐ自転車の後ろからふいに降りると、
土手を駆け下りていく。
その姿をカメラは土手の上からじっと動かずに撮り続ける。
まち子の姿がどんどん小さくなり……、
鉄橋を支える柱の後ろに隠れて見えなくなるのだけれど……、
しばらくすると、柱の後ろから姿を現し、こっちに向かって駆けてくる。
そうして、すぐ近くまで来ると、まち子はカメラをまっすぐに見つめて告げる。
「あそこで誰か死んでいる……」


このとき、私は、おお……と声が出そうになってしまった。
まち子の顔を間近で見たいという欲望が、こんな形で実現してしまうとは。
リュミエール兄弟の『列車の到着』を初めて見た人たちは、ひどく興奮したというが、
まち子が土手を駆け上がり、こっちに迫ってくるときに私が感じた興奮は、
それと同じくらい強かったんじゃないのか、
などと思ってしまった(こりゃ、言い過ぎですね)。


この川原のシーン以後、
まち子の顔を正面から撮ったカットが映画の中に何度も出てくるのだけれど、
とにかく、どのアップもいつまでも見続けていたいと思うくらい、魅力的だ。
(特に浴室でのまち子の顔のアップは素晴らしい)


女優の顔をどうやって撮ったらいいか。
監督の西尾孔志はそのことでずいぶんと試行錯誤したのかもしれないけれど、
『ナショナルアンセム』の素晴らしさは、その試行錯誤を観客である私たちも追体験できるところにあるのではないだろうか。


(この感想は、『狂気の海』公式サイトのコメント欄に書いたものの再録です)

西尾孔志『ナショナルアンセム』について・2(井川耕一郎)

前に書いた感想だと、
『ナショナルアンセム』の見どころはまち子だけみたいに見えてしまうけれど、
そんなことはない。


たとえば、まち子が風呂に入っている場面。
この場面には、まち子の姉の幻が出てくるのだけれど、
その幻は浴槽の縁に立っていて、
ゆっくりおじぎするようにまち子に迫ってくる。
このとき、まち子を間近からじっと見つめる幻の姉の顔は、かなり恐い。


それから、まち子が病院でカウンセリングを受けたあとの場面。
とおりゃんせ……とおりゃんせ……と、
恐いくらい透きとおった歌声が聞こえてきて、
まち子は病院のテラスに出る。
すると、画面に映るのは一人の看護師の後ろ姿で、
まち子は彼女の隣に立ち、歌声がとぎれたところで話しかける。
伝染病なんです……、と。


まち子はなぜ自分にとり憑いた妄想を告白する気になったのか。
その理由は、看護師の顔を正面から撮ったカットを見たとたん、すぐに分かる。
隣にいるまち子を見ているはずなのに、もっと遠くを見ているような目。
頭蓋骨の形が透けて見えてきそうな顔つき。
とおりゃんせ……と歌っていた看護師には、
この世のものではない妖しげな存在感がある。


ここまで書いてきて、ふと思ったのだけれども、
姉や看護師が不気味な存在感を示すようになったのは、
まち子に接触したからではないか。
『ナショナルアンセム』のあらすじは、
口笛を介して何かが人々に感染し、殺人が起きるというものだったが、
まち子の顔も口笛と同じくらい、感染力の強い何かを放っているような気がする。
いや、ひょっとしたら、
この思いつきはもうちょっと真面目に考えてみてもいいのかもしれない……。


工事現場から不発弾が発見されたこと。
かつて町にあった軍の施設で催眠術の研究が行われていたこと。
『ナショナルアンセム』の中で次々と起きる殺人は、
地中に眠っていた過去の呪いが解き放たれた結果のように見える。
けれども、本当にそうなのだろうか?


映画の後半で、団地の管理人の息子は刑事に射殺されてしまうが、
そのとき、彼はまち子に向かって「さよなら、お母さん……」とつぶやいてしまう。
彼は本当のことに気づいてしまって、
この世界の仕組みを告げようとしていたのではないか。
世界に混乱をもたらしているのは、過去の呪いだけではない。
まち子の狂気も原因の一つではないだろうか。


いや、もうちょっと正確に言うなら、
映画の後半、白昼堂々と殺し合いが行われるようになってからの世界を支えているのは、
まち子の狂気だけのような気がする。
姉が首を吊って死ぬ幻覚を見た直後に、まち子は診察室で意識を失うけれども、
その後、彼女が目を覚ました世界は、それまで生きていた世界とは同じではないだろう。
そうではなくて、彼女は自分の妄想の中で目を覚ましたのではないか。


面白いと思ったのは、廃工場でまち子が目を覚ましてからの場面だ。
まち子は自分の分身を目撃し、あとを追いかけるようにして建物の二階に上がる。
すると、そこには団地の管理人の息子がいるのだが、
部屋の隅にうずくまっている、ちょっと頭の弱いその息子の姿は、
『ナショナルアンセム』の後、西尾孔志が撮ることになる『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』*1に出てくる、
自分を宇宙人だと思いこんでいる少年・タケオによく似ているのだ。


似ているのは、団地の管理人の息子だけではない。
分身を見てしまうという点で、まち子も『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』のヒロイン・華に似ていると言える。
『ナショナルアンセム』の製作は、黒沢清高橋洋をまねてみようという発想から始まったのかもしれないが、
廃工場でまち子と団地の管理人の息子が出会うシーンを撮ったときに、
西尾孔志は、これから自分が語るべき物語が何なのかをうっすら予感したのではないだろうか。


この世界の中に居場所が見つけられない少女と少年が出会ってしまう物語。
この世界の終わりと、新たな世界の始まりを夢見る少女と少年の物語。
ひょっとしたら、西尾孔志は青春映画に資質的に向いているのかもしれない。


ところで、精神を病んでいるまち子は、一体、何を望んでいるのだろうか。
まち子は、伝染病が広まって、みんな死んでしまう、と言っていた。
ということは、自分自身も伝染病で死ぬことを望んでいたのだろうか。
けれども、まち子は口笛を聞くことがない。
だから、殺し合いに加わることもできない。
映画の後半、白昼堂々と殺し合いが行われる世界で、
まち子が武器を持たないのは、誰かに殺されるときを待っているからなのか。


いや、まち子が武器を持たないことについては、別の解釈も成り立つような気がする。
伝染病で、みんな死ぬ、という予言めいた言葉を口にしたとき、
まち子は、世界が破滅するさまを見届けたい、とひそかに願っていたのではないか。
彼女の無意識は、
世界の破滅を見届ける運命にある自分が、そう簡単に死ぬはずがない、
と思っているのかもしれない。
それだから、まち子は武器を持とうとしないのではないだろうか。


さっさと死んでしまいたいと願う一方で、まだ死なないだろうと思ってしまう矛盾。
まち子が武器を持たないことの中には、そうした気持ちの揺れ動きというか、迷いが読み取れそうだ。
けれども、そんなまち子の前に、我が身を守るために武装することを選んだ女たちが現れる。
(この武装集団の中に、恐いくらい透きとおった歌声のあの看護師がいるのを見て、
私はうれしくなった。
彼女の出番が一シーンだけで終わっていいはずがないのだ)


集団の実質的なリーダーらしい女子高生(ライフルを手にして立つ彼女の姿は、様になっていて美しい)は、まち子に語る。
「(世界は)狂ってる方がいい。
おれは前の世界が嫌いだった。
今の方が充実している」
このとき、女子高生はまち子に、世界の破滅を見届けよ、と迫っているように見える。


それにしても、
世界の破滅を見届けることは、
後から来る何者かにそのすべてを物語れ、ということではないか。
言い替えれば、
世界の破滅を見届けることは、
表現への欲望を産みだす、ということではないだろうか。


映画のラストで、
まち子は女子高生、看護師とともに、銃声がひっきりなしに聞こえる中を駆け抜ける。
その走る三人の姿は、常本琢招が学生時代に撮った自主映画『にっぽにーず・がーる』*2をふと思い出させる。
たぶん、西尾孔志は『にっぽにーず・がーる』を見ていないだろう。
それでも、二本の映画が似てくるのは、
西尾も、常本も、今ここで何かを表現したいという欲望に衝き動かされるようにして、映画を撮っているからだ。


どこからか飛んできた銃弾によって、倒れてしまう看護師。
それを見て、まち子の足は止まってしまう。
すると、女子高生は「走れ!」と叫ぶ。
その呼びかけは、まち子に対するものであると同時に、
西尾孔志が自分自身に向かって放った言葉でもあるだろう。
表現への欲望を肯定し、作品を作り続けること。
『ナショナルアンセム』は、一人の映画作家の誕生を告げる重要な作品だと思う。


(この感想は、『狂気の海』公式サイトのコメント欄に書いたものの再録です)

*1:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20080429

*2:『にっぽにーず・がーる』は、7月17日(木)14時からフィルムセンターで上映されます。http://www.momat.go.jp/FC/Cinema2-PFF1/kaisetsu_20.html