西尾孔志『ナショナルアンセム』について・2(井川耕一郎)

前に書いた感想だと、
『ナショナルアンセム』の見どころはまち子だけみたいに見えてしまうけれど、
そんなことはない。


たとえば、まち子が風呂に入っている場面。
この場面には、まち子の姉の幻が出てくるのだけれど、
その幻は浴槽の縁に立っていて、
ゆっくりおじぎするようにまち子に迫ってくる。
このとき、まち子を間近からじっと見つめる幻の姉の顔は、かなり恐い。


それから、まち子が病院でカウンセリングを受けたあとの場面。
とおりゃんせ……とおりゃんせ……と、
恐いくらい透きとおった歌声が聞こえてきて、
まち子は病院のテラスに出る。
すると、画面に映るのは一人の看護師の後ろ姿で、
まち子は彼女の隣に立ち、歌声がとぎれたところで話しかける。
伝染病なんです……、と。


まち子はなぜ自分にとり憑いた妄想を告白する気になったのか。
その理由は、看護師の顔を正面から撮ったカットを見たとたん、すぐに分かる。
隣にいるまち子を見ているはずなのに、もっと遠くを見ているような目。
頭蓋骨の形が透けて見えてきそうな顔つき。
とおりゃんせ……と歌っていた看護師には、
この世のものではない妖しげな存在感がある。


ここまで書いてきて、ふと思ったのだけれども、
姉や看護師が不気味な存在感を示すようになったのは、
まち子に接触したからではないか。
『ナショナルアンセム』のあらすじは、
口笛を介して何かが人々に感染し、殺人が起きるというものだったが、
まち子の顔も口笛と同じくらい、感染力の強い何かを放っているような気がする。
いや、ひょっとしたら、
この思いつきはもうちょっと真面目に考えてみてもいいのかもしれない……。


工事現場から不発弾が発見されたこと。
かつて町にあった軍の施設で催眠術の研究が行われていたこと。
『ナショナルアンセム』の中で次々と起きる殺人は、
地中に眠っていた過去の呪いが解き放たれた結果のように見える。
けれども、本当にそうなのだろうか?


映画の後半で、団地の管理人の息子は刑事に射殺されてしまうが、
そのとき、彼はまち子に向かって「さよなら、お母さん……」とつぶやいてしまう。
彼は本当のことに気づいてしまって、
この世界の仕組みを告げようとしていたのではないか。
世界に混乱をもたらしているのは、過去の呪いだけではない。
まち子の狂気も原因の一つではないだろうか。


いや、もうちょっと正確に言うなら、
映画の後半、白昼堂々と殺し合いが行われるようになってからの世界を支えているのは、
まち子の狂気だけのような気がする。
姉が首を吊って死ぬ幻覚を見た直後に、まち子は診察室で意識を失うけれども、
その後、彼女が目を覚ました世界は、それまで生きていた世界とは同じではないだろう。
そうではなくて、彼女は自分の妄想の中で目を覚ましたのではないか。


面白いと思ったのは、廃工場でまち子が目を覚ましてからの場面だ。
まち子は自分の分身を目撃し、あとを追いかけるようにして建物の二階に上がる。
すると、そこには団地の管理人の息子がいるのだが、
部屋の隅にうずくまっている、ちょっと頭の弱いその息子の姿は、
『ナショナルアンセム』の後、西尾孔志が撮ることになる『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』*1に出てくる、
自分を宇宙人だと思いこんでいる少年・タケオによく似ているのだ。


似ているのは、団地の管理人の息子だけではない。
分身を見てしまうという点で、まち子も『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』のヒロイン・華に似ていると言える。
『ナショナルアンセム』の製作は、黒沢清高橋洋をまねてみようという発想から始まったのかもしれないが、
廃工場でまち子と団地の管理人の息子が出会うシーンを撮ったときに、
西尾孔志は、これから自分が語るべき物語が何なのかをうっすら予感したのではないだろうか。


この世界の中に居場所が見つけられない少女と少年が出会ってしまう物語。
この世界の終わりと、新たな世界の始まりを夢見る少女と少年の物語。
ひょっとしたら、西尾孔志は青春映画に資質的に向いているのかもしれない。


ところで、精神を病んでいるまち子は、一体、何を望んでいるのだろうか。
まち子は、伝染病が広まって、みんな死んでしまう、と言っていた。
ということは、自分自身も伝染病で死ぬことを望んでいたのだろうか。
けれども、まち子は口笛を聞くことがない。
だから、殺し合いに加わることもできない。
映画の後半、白昼堂々と殺し合いが行われる世界で、
まち子が武器を持たないのは、誰かに殺されるときを待っているからなのか。


いや、まち子が武器を持たないことについては、別の解釈も成り立つような気がする。
伝染病で、みんな死ぬ、という予言めいた言葉を口にしたとき、
まち子は、世界が破滅するさまを見届けたい、とひそかに願っていたのではないか。
彼女の無意識は、
世界の破滅を見届ける運命にある自分が、そう簡単に死ぬはずがない、
と思っているのかもしれない。
それだから、まち子は武器を持とうとしないのではないだろうか。


さっさと死んでしまいたいと願う一方で、まだ死なないだろうと思ってしまう矛盾。
まち子が武器を持たないことの中には、そうした気持ちの揺れ動きというか、迷いが読み取れそうだ。
けれども、そんなまち子の前に、我が身を守るために武装することを選んだ女たちが現れる。
(この武装集団の中に、恐いくらい透きとおった歌声のあの看護師がいるのを見て、
私はうれしくなった。
彼女の出番が一シーンだけで終わっていいはずがないのだ)


集団の実質的なリーダーらしい女子高生(ライフルを手にして立つ彼女の姿は、様になっていて美しい)は、まち子に語る。
「(世界は)狂ってる方がいい。
おれは前の世界が嫌いだった。
今の方が充実している」
このとき、女子高生はまち子に、世界の破滅を見届けよ、と迫っているように見える。


それにしても、
世界の破滅を見届けることは、
後から来る何者かにそのすべてを物語れ、ということではないか。
言い替えれば、
世界の破滅を見届けることは、
表現への欲望を産みだす、ということではないだろうか。


映画のラストで、
まち子は女子高生、看護師とともに、銃声がひっきりなしに聞こえる中を駆け抜ける。
その走る三人の姿は、常本琢招が学生時代に撮った自主映画『にっぽにーず・がーる』*2をふと思い出させる。
たぶん、西尾孔志は『にっぽにーず・がーる』を見ていないだろう。
それでも、二本の映画が似てくるのは、
西尾も、常本も、今ここで何かを表現したいという欲望に衝き動かされるようにして、映画を撮っているからだ。


どこからか飛んできた銃弾によって、倒れてしまう看護師。
それを見て、まち子の足は止まってしまう。
すると、女子高生は「走れ!」と叫ぶ。
その呼びかけは、まち子に対するものであると同時に、
西尾孔志が自分自身に向かって放った言葉でもあるだろう。
表現への欲望を肯定し、作品を作り続けること。
『ナショナルアンセム』は、一人の映画作家の誕生を告げる重要な作品だと思う。


(この感想は、『狂気の海』公式サイトのコメント欄に書いたものの再録です)

*1:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20080429

*2:『にっぽにーず・がーる』は、7月17日(木)14時からフィルムセンターで上映されます。http://www.momat.go.jp/FC/Cinema2-PFF1/kaisetsu_20.html