西尾孔志『ナショナルアンセム』について・1(井川耕一郎)

『ナショナルアンセム』には50人近い人が出演しているという。
とにかく、新たな登場人物が次々と出てきて、顔がおぼえきれない。
今、画面に映っているこの人は、前のあのシーンに出ていた人と同じ人なのかな?
なんて考えながら見てしまうから、
あらすじも何が何だか分からなくなってしまう。
でも、なぜだか見入ってしまう。
ずっと見続けていたいと思ってしまう。
それはなぜなのか?


映画が始まってすぐ、
自転車の後ろに立った姿勢で乗っている女の子がちらっと後ろをふりかえる。
その一瞬見えた顔に、おや?と思ってしまう。
何だか気になる顔だ。


次にその子が登場するのは病院で、
診察室にしてはやたらと広い部屋の真ん中に置かれたオフィスチェアに座っている。
さっき「女の子」と書いてしまったのは、
髪を二つに結んでいる様が子どもっぽく見えたからで、
本当はもうちょっと年は上なのかもしれない。
とにかく印象的なのは目だ。
ちょっとつりあがった大きな目、アーモンドを連想させる目で、
モジリアニなら、彼女をモデルにして絵を描きたくなるだろうな、などと思ってしまう。


あとになって、「まち子」とひとから呼ばれるその子は、
膝の上に行儀よく手を置いているのだけれど、
オフィスチェアをだらしなく回転させながら、そっと小声で話しだす。
「伝染病なんですよね……そのうち、町に広まって……死んでしまう、みんな……」
まち子はそこまで言うと、前をじっと見つめる。
画面には映っていないけれど、彼女の正面に医者がいるのだろうか。
そんなことを思っていると、
ふいにまち子の背後のドアが開き、医者が入ってくる。
さっきまで誰かいるように感じられた画面外の空間には誰もいなかったのだ。


イスに座った医者はまち子にいろいろと話しかけるが、
まち子は何も答えない。
ただそれだけのカットなのに、
私たちはまち子のことをあっという間に理解してしまう。
彼女が心を病んでいることを。
心を病んでいるのを自覚してはいるが、
自分にとり憑いた妄想を追い払えないでいることを。


この時点で、私はまち子の顔にかなり心を奪われてしまっている。
カメラはもうちょっと彼女の顔に寄った方がいいんじゃないか、
などと考えだすようになってしまっている。
すると、姉と住むアパートのシーンで、まち子の横顔がアップになる。
画面の左半分にまち子の横顔が大きく映り、
右半分の空間の奥の方に彼女の姉が立っているという大胆な構図。
だが、見ているうちに、
面白いけれど、これは、ちょっと、と思ってしまう。
まち子の口もとが映っていないことが気になるのだ。
あのアーモンドのような大きな目は、小さな口もととの対比で生きてくるのではないか……、と。


ところが、その後の川原のシーン。
まち子は姉がこぐ自転車の後ろからふいに降りると、
土手を駆け下りていく。
その姿をカメラは土手の上からじっと動かずに撮り続ける。
まち子の姿がどんどん小さくなり……、
鉄橋を支える柱の後ろに隠れて見えなくなるのだけれど……、
しばらくすると、柱の後ろから姿を現し、こっちに向かって駆けてくる。
そうして、すぐ近くまで来ると、まち子はカメラをまっすぐに見つめて告げる。
「あそこで誰か死んでいる……」


このとき、私は、おお……と声が出そうになってしまった。
まち子の顔を間近で見たいという欲望が、こんな形で実現してしまうとは。
リュミエール兄弟の『列車の到着』を初めて見た人たちは、ひどく興奮したというが、
まち子が土手を駆け上がり、こっちに迫ってくるときに私が感じた興奮は、
それと同じくらい強かったんじゃないのか、
などと思ってしまった(こりゃ、言い過ぎですね)。


この川原のシーン以後、
まち子の顔を正面から撮ったカットが映画の中に何度も出てくるのだけれど、
とにかく、どのアップもいつまでも見続けていたいと思うくらい、魅力的だ。
(特に浴室でのまち子の顔のアップは素晴らしい)


女優の顔をどうやって撮ったらいいか。
監督の西尾孔志はそのことでずいぶんと試行錯誤したのかもしれないけれど、
『ナショナルアンセム』の素晴らしさは、その試行錯誤を観客である私たちも追体験できるところにあるのではないだろうか。


(この感想は、『狂気の海』公式サイトのコメント欄に書いたものの再録です)