緋色の研究 『INAZUMA 稲妻』を読む(松村浩行)

(この批評は『INAZUMA 稲妻』についてかなり詳しく論じています。ネタバレが気になる方は映画を見たあとにお読み下さい)

囚われた妻を救い出すため、川岸へと通じる地下道の闇のなかを、刀片手に、痛めた足をもどかしそうに引きずって急ぐ加嶋を包むように、どこからかセリの声が響いてくる。おおい、千華ちゃんのとこに行くの? もうそんなに傷ついてるじゃない。止めなよ。止めときなよ。
 その身体に傷を負わせようと、いくども執拗に斬りかかっていった宿命の仇役に向かってかける言葉としてはあまり相応しくないけれど、その声は何だか拍子抜けするほど幼くて可愛らしく、まるで子供が、不意に遊びから抜けて家路についた友達を呼び止める声のようにも聞こえて(加嶋にならってなのか、ここだけ千華をちゃんづけで読んでいるせいもあるのだろう)、二人の関係の奥底には、どこか児戯めいた無窮性が潜んでいるのかも知れないと思える。
 しかしいま、そうしたセリの呼びかけも加嶋の足を止めることはなく、かれをしてただ苛立たしげに、こう叫ばせるばかりだ。うるさい、おまえにはわからないんだ!
 セリの呼びかけがどこか子供っぽい調子をまとっていたのとは対照的に、加嶋の返しは、まるで不倫関係を清算して家庭に帰ろうとする男が、すがる女に向かって浴びせる捨て台詞のようで面白い。思うに「おまえにはわからない」と加嶋が決めつけたこと、それは、何も夫婦のあいだの愛や絆といったことに限定されない、「刀」という媒体を介在させずに取り結ばれる個との個の関係性を指すのだろう。
 ここで興味深く思われるのは、ふたたび加嶋がこれとまったく同じような言葉を、しかしまったく反対の意味で、今度は千華に向かって吐き出すことだ。土手の上でまたぞろはじまったセリとの際限のない果たし合いを止めさせようと、川辺に係留された小舟の上から夫に呼びかける妻へ、加嶋は自棄気味に声を張り上げる。うるさい、おまえに何がわかる?
 この反語的な問いかけは、さきのセリへの断定と正確な陰陽をなしている。千華には「わからない」こと、それは、「刀」(正しくは真剣だけれど)という媒体を介在させることでしか築き得ない、個と個のあいだの特殊な関係性にほかならない(かつて「刀って怖いわね」と千華はいった)。
 「おまえにはわからないんだ!」から「おまえに何がわかる?」の間隙でなされた、最終的な、もはや取り返しのつかない転回に、このドラマのクライマックスは賭けられている。かくしてセリの頬を斬ったときと同じく、上段から振り下ろされた太刀によってロープは断ち斬られ、千華と火消しを乗せた舟はするすると川面を滑って、「わかっていない」人間たちと「わかっている」人間たちとのあいだの隔たりを決定的なものにしていくのだ。
 けれども、あくまで「仇討ち」というものを然るべき手順を踏めば実現可能な(そしてその実現とともに解消されるような)企てとしてしか解していない様子の火消しは措くとして、千華を単なる「わかっていない」人間として斬り捨てることだけは留保しなくてはならない。なぜなら彼女は「わかる」「わからない」の分別(それはあくまで加嶋の側からの分別なのだ)を越えた、あるひとつの根源的なイメージに、映画の半ばで触れていたからだ。
 菓子を食べながらぼんやりとテレビ画面を眺める千華は、いくぶんカマトト的と聞こえなくもない調子で、当事者の妻としてよりは、いち視聴者然として、「この二人、何のために戦っているのかしら?」と独ごつ。と、シーンはテレビのなかのセリと加嶋に移り、まるで千華の問いを承けて答えるかのように、「あたしはね、」と切り出すセリは、うつ伏せになった加嶋の背中に短刀を突き立て、あらわにした肌へその刃を滑らせる。刃はインクをたっぷり含んだペン先のような慎重さで、ゆっくり赤い線を引きはじめる。すると画面は赤というか朱というのか、濃い朱、緋色のような一色に覆われて、そこにセリの声、「あんたの血が見たい。あんたの血潮を浴びたいの」
 西山氏の近作にしばしば挿入される、身も蓋もないほど過激に平板で説明的な図版化の一種とも思えるその単色の画面は、後続する夫婦の部屋のシーンにもう一度現れる。
 疲れて仰向けになっている加嶋を、千華はマッサージを口実にわざわざうつ伏せにさせ、おもむろに手を夫の背に置く。そして芝居をしているあなたが好きだった、あなたと芝居をしているときうれしかった、セリさんのことがうらやましいと告白したのち、そっとシャツの襟を下げる。夫の背中を見下ろす妻のアップに、あの緋色の画面が短く挟まって、ああいう愛し合い方も、あるものなのかしらという千華に、あれはただの殺し合いだよと加嶋が受け流すと、千華はそうかしらと呟いて、指先が傷を、まるで書かれた線を読み取るようにたどりはじめる。
 これを境に、千華は傍観者から妨害者へと立場を変えて、積極的に事態に介入しはじめるのだから、彼女は夫の背中に刻まれた傷に、大きく芝居を逸脱した愛のしるしを読み取り、激しい嫉妬に駆られもしたのだろうけれど、何よりここで大切なのは、うつ伏せになった夫の傍らで、千華がセリと同じ角度から背の傷跡を見下ろしたということ、そしてそうした俯瞰する眼差しの共有のなかで、彼女たちが等しく緋色のイメージに触れたことだと思う。
 おそらく、千華はその反復のうちに、セリによってあらかじめ見られたその緋色のイメージのうちに、みずからの疑問、いったい何のために二人は戦うのかという問いへの、ある簡潔な(しかし言語化することのできない)答えをも垣間見たのではないか。そして「仇討ち」の名においてなされる、二人の濃密な関係性への憧憬すら感じて、ゆえに、いま起こっている状況への参与へと、急速に駆られていったのではないだろうか。
 うつ伏せた加嶋の背に二度立ち現れ、二人の女の眼差しによって密かに分ち持たれていたそのイメージを、しかしかれ自身が目にすることはない。冗談のようだけれど、誰しも自分の無防備な背中を見下ろすことなどできないのだから。それゆえ、あの緋色は加嶋の分別からこぼれ落ち、ドラマの基底に、かれの目には隠された色調として横たわっている。
 それに触れ得た女たちと、触れ損ねた男たち。緋色の画面を透かすことで、『INAZUMA 稲妻』はそのような物語として読めたのだった。


松村浩行:1974年生まれ。北海道出身。大学卒業後、98年映画美学校第2期フィクション科に入り、井川耕一郎、西山洋市などに学ぶ。監督作品として99年『よろこび』、02年『YESMAN NOMAN MOREYESMAN』*1。現在、次回作『トーチカ』撮影に向け長い準備中。

*1:ブレヒトの戯曲の日本語訳を外国人を役者に起用して映画化するという試み。下手をすればコントすれすれの発想だが、この作品ではその無茶な試みが成功している。極端なまでに直訳の台詞がたどたどしい日本語で語られるのを聞いているうち、いつしか見ている者は言葉を聞いて理解するとはどういうことかを考えだすようになるだろう。少年と母が住む家がまるでフェルメールの絵のように美しいのも忘れがたい」『映画芸術』402号「2002年度日本映画ベストテン・ワーストテン」の井川の選評より。