永遠の5月23日(高橋洋・西山洋市・片桐絵梨子)

来週あたり、ブログを再開しようと思うのですが、その前に5月23日のコメント欄を本文に再録しておくことにします。演出や演技をめぐってなかなか興味深い議論が展開されているのですが、一体、この議論はいつまで続くのか……それは誰にも分かりません。(井川)


高橋洋
作品紹介に書かれていた「アクション物とは違うコンセプト」というのが凄く気になっていたのですが、というのも僕は『INAZUMA 稲妻』にまさにアクション映画、フォルムの映画として衝撃を受けたからです。情念のドラマとしてはまったく見ませんでした。その辺が「パッション」として捉えた井川君の感覚と違うのかも知れません。もっとも「パッション」とはフォルムに行き着くべきものですが。
 そんなわけで、僕は感情を押し出そうとする芝居が散見される辺りが正直、不満でした。それは感情が写っているのではなく(それこそがフォルムです)、感情を押し出そうとしている人物が写っているからではないか。
 フォルムを描くのは難しいです。一つ間違えば、あるルーティンな類型上の役柄を演じることと勘違いされかねない。しかし、そんなことをしてもフォルムは生まれない。一人一人の人物像をしっかり捉えた時、俳優はフォルムを獲得すると思います。
 で、きっと凄く難しいとは思いますが、最初のプロットにとても魅力を感じました。


西山洋市
脚本の直しの狙いを説明するために「激しいドラマ」とか「情念」とかいう図式的な言葉を使いましたが、それと実際の脚本とはまた違ってくるものですね。実際に完成した脚本自体、すでにそのような図式的な概念にきれい収まるようなものではありませんでした。「アクション物とは違うコンセプト」とは言っても「チャンバラ」なんですから、当然アクションになります。ただ、脚本にはチャンバラの全貌を書くことはできないので、パッションのドラマの内容を主に書いてもらうことになるし、書いてあります。完成した映画は演出によって脚本とはまたちょっと違うものになると思うんですが、アクションもパッションも両方ありますね。
 両方あると言えば、登場人物の芝居も、テレビで演じている芝居と日常を演じる芝居と二つあるんですが、どっちがどっちだか分からなくなってるようなところがあります。テレビでは「ルーティンなる類型上の役柄」を演じて日常はそうではないかというと、それがあべこべになってしまったりもする。みんな「しっかりした人物像」というのがよく分からないんです。そんなものは無いのかもしれないとも思えば、逆に、いや一人の人物にルーティンからオリジナルまでのすべてが大きな振幅としてあるのだ、とも思います。だから「感情を押し出そうとする芝居」もあるし「感情を押し出そうとする人物」もいるし、さらには「感情を押し出そうとする芝居をする人物」もいるし、その逆も、淡々から無表情まで、全部ある、というのがいいですね。
 最初のプロットについて文中で説明するのを忘れていましたが、これは3年前に、複数のメンバーで「どういう人物が」「どういう理由で」「どういうことをする」というそれぞれの要素ごとに思いつくまま前後の脈絡無くばらばらに書いたカードを出し合い、無作為に並べてみて偶然に出てきた面白い出来事を構成して飛躍や意外性のあるお話を作るという試みから出来たもので、このプロットに関しては最終的に要素を取捨選択して構成したのは僕なんですが、思ってもみなかったことが出てきて面白かったです。


片桐絵梨子
脚本を担当致しました、片桐です。
「情念」について西山さんが書かれているように、私の第一稿には「情念」というものはありませんでした。
私は「アクション映画」がつくりたくて仕方がなく、「情念」なるものは、それまでも私ができることなら避けて通りたいと思っていたものであり、そんなものは無いものとして世界をつくろうと思っておりました。ですが西山さんから提示されてしまったので覚悟を決めてやってみたところ、書きながら気分が妙に昂揚して実に面白く、ノリノリで書き上げてしまいました。
 西山さんからのダークな指示は実に的確だったと思われます。この低予算で普通のアクション映画を目指すのは土台無理な話だったのです。「情念」は物語をつくり、物語はアクションを支え、かくしてINAZUMAはできあがったのでした。
 「感情を押し出そうとしている芝居」がと高橋さんはご不満とのことですが、役者が情念を押し出そうとしたのではなく、私が情念を押し出そうとしていたのかもしれません。しかしそれも私の情念第一作なので、仕方の無いことです。それに、どこが芝居でどこが芝居ではないのかよくわからない映画なので、そういう風に見えてもいいんです。
 「大菩薩峠」の雷蔵は稲妻をつくる上で随分参考にしましたが、それよりも常に私の頭の中にいたのは、実はラングの「Big Heat」のデビーと、「赤線玉ノ井 抜けられます」の公子だったのでした。
 「大菩薩峠」のDVDBOXは、この間、お金に困って売っちゃいました。


高橋洋
西山さんが書いた「イメージ→コンセプト→ヴィジョン」の分析は物凄く重要で、現在製作実習中の9期生らによく読むよう言いました。美学校生たちが必ずぶつかる「ホン直しの壁」の問題から、現場でしょっちゅう起こる「だいたい意図通りの段取りが成立してるのだけど何かが違う」みたいなことにまで関わってくる大きな視点だと思います。僕自身はコンセプトという言い方にあまりなじみがなく、何もかもひっくるめてヴィジョン、という感じでいるんですが、それがイメージに流れる危険は確かにあるわけです。「何かが違う」と感じるのはおそらくそういう時で、事物の関連が探求されたのではなく、観念レベルの自足で留まっていたことが明らかになる。何よりも大事なのは事物の関連を見極めることだ‥‥。
 「感情」というのは難しい。僕もよく判りません。
 『INAZUMA 稲妻』を見た後、万田さんと僕の間で、主演の宮田亜紀ちゃんを前にして、「亜紀ちゃんで感情を描かれてしまった、悔しい」という万田さんと、「え、そんなものあった?」という僕で意見が分かれたのです。かくいう僕は『ソドム』の時、キャサリン役の亜紀ちゃんに「君は感情が出ないからいい」(誉め言葉)と言って、相当落ち込ませてしまった前科があり‥‥。
 その後、亜紀ちゃんと僕は万田さんの新作で共演。たぶん万田さんは「感情」を狙ったはずなんですが、うーん、何のことかよく判りませんでした。まだ完成作を見てませんが。でも、長ゼリフを体の中に入れて、その台詞が勝手に身体のリズムを生み出すプロセスはかなりおおッとなる貴重な体験でした。
 篠崎さんは嶋田久作さんと話していて、俳優が「感情を作る」瞬間ってことを考えてますよね。あれって何なのか‥‥?
 それで、僕が気になった「感情を押し出そうとしている芝居」というのは、つまり感情を「説明」してるんじゃないか、ということだったんです。「説明」というのも映画作りで呪いのようにつきまとうタームなんですが。こう言うとまたまた亜紀ちゃんを落ち込ませてしまうかも知れないですが、決して上手い下手の問題ではない‥‥。僕は子供の頃、『悪魔くん』という怪奇特撮番組が好きで、この頃の子役は台詞がとちらずに言えればOK、それとプロフェッショナルなメフィスト役の吉田義男が同居してる画がやたらと面白かったんですね。台詞を言うだけでいっぱいいっぱいの子役たちは、しかし決して「説明」をしてるわけではない。ただそこにいるのです。後にブレヒトを読んだりして、「俳優は役を演じるのではなく、役を指し示すだけだ」(うろ憶え)に妙に高揚したのもそういうこととつながっていたのかしら。
 フォルムの問題も、僕は多分に自戒として書いたのですが、製作実習の指導をしている時、受講生らがある役について「ドラマによく出てくる、主人公の相談役になる食堂のおばちゃん」みたいな捉え方をしていて、いや、そういうアプローチは絶対間違ってると僕は言ったのです。それはみんなが安心したいから類型に頼ってるだけで、実はその役のことを俳優にチャンと伝えてないと。フォルムとか型とかいう言葉はこういう風に誤解されて流通したりもするのだなと。ここにもある役を「説明」しようとする罠が潜んでいるわけです。


西山洋市
「感情を押し出そうとする芝居」というのが具体的にどこなのか分かりませんが、思うに、観客に対してではなく、相手役に対して自分の感情を説明しようとしている場面ではないですか。いろいろな状況でいろいろな思いがいろいろな形態でやりとりされるような内容ですから。
「台詞を言うだけでいっぱいいっぱいの子役」は、しかし、「ただそこにいる」のではなく、「台詞を言うだけでいっぱいいっぱいの子役」としてそこにいるんではないですか?そういう状況は子役に限らず、自主制作映画などでは大人の素人役者にもよくあることだと思いますが、それは僕には放っておけません。なんとかしようとして、いろいろ考えると思います。それはもちろん余計な芝居をさせるということではなく。なんとか形にしようとして、そのための手を懸命に考えるでしょう。
ブレヒトの「俳優は役を指し示すだけ」というのも、だからそういうほったらかしの状態とは違って、そのような意図をはっきり持って意識的にそれをやるということで、芝居としては複雑な二重性を持つものになるんじゃないでしょうか。想定される人物を、その人物に成り切る形で「造形する」のではなく、それがどのような人物なのかを第三者に報告するようにワンクッション置いた客観性なり批評性なりを持った芝居として「再現する」というのがブレヒトの演技論の狙いだったと記憶しています。つまり、「説明しない」のではなく、逆にあからさまに「説明する」んじゃないでしょうか。説明しつつそこにいるのは役者です。けっして、台詞を言うだけでいっぱいいっぱいの人であってはいけないというのが僕の思いです。ブレヒト本人が演出した芝居を見たことがないので、ブレヒトの演技理論が本当に実現された姿は分かりませんが、ある種のロックミュージシャンや喜劇役者のパフォーマンスでそういった「演出」が本能的に為されているのを見たことで、僕の中にそういう演技や演出に対するヴィジョンがひとつの理想として出てきたような気がします。もっとも、だからと言って、それが簡単に出来るほどの能力も僕にはないのですが。
「ドラマによく出てくる、主人公の相談役になる食堂のおばちゃん」というのは、説明のための説明であって、本当に説明すべき具体が実はなにもないからいけないんじゃないかと思いました。
ところで、宮田亜紀は「感情が出ない」役者じゃないと僕は思うんですけどね。セリフにはリズムだけじゃなくてメロディもあるような気がしていて、このメロディが感情で、一方リズムが高橋君の体感した身体的なもので、セリフにはメロディのあるものとないものがある、だからリズムオンリーのセリフには感情が乗りにくく、無理に感情を乗せようとするとおかしなことになる、だがメロディオンリーのセリフだと鼻持ちならなくなる、そして両方合わせると歌のようなものになるんじゃないかという美しい仮説を立ててみたのですが。


高橋洋
そうでした、僕が気になった芝居がどこか書くのを忘れてました。といっても物語がチャンと頭に入ってないんで、劇中のどこって言い難いんです。確か映画の後半、野外で二人が斬り合いしていて、画面手前が加嶋、奥がセリで、セリが刀を斬り下げた前屈みの姿勢で台詞を言う、その声の張り出し方が、あれ? 感情を押し出そうとしている人みたいだな、とひっかかったのです。あの姿勢から声を出すとどうしても張り上げる感じになってしまうのかも知れませんが、そこの芝居での声の発し方が全編を通して妙に浮き上がって聞こえ、印象に残りました。つまり「感情」に対する意図といったものを感じさせた、ということです。
 ブレヒトの言葉の解釈は西山さんとピッタリ一致しています。まさに「二重性」です。で、『悪魔くん』のその子役たちは、「台詞を言うだけでいっぱいいっぱいの子役」として演者であることをあからさまにしつつ、同時に「ただそこにいる」、つまり世界を作り出している。僕はまるで実況中継を見るように、子役が台詞を言う番が回ってくるたびハラハラしてましたが、その拙さはもちろん演技上の限界だとして、決してほったらかしの状態ということではない。やはり魅力があり、かつそれは子役の力だけで生まれたのでもない。吉田義男とのアンサルブルによって生まれた演出であり、世界であったと思います。
 しかし、それが「説明」と言われると、うーん、それはやはりあからさまに「指し示した」「提示した」という方がピッタリくるのではないでしょうか。僕なりの「説明」の語感は、描かれる事柄よりも、作り手たちの意図が先に感じ取られてしまう、ということです。むろんその「意図」の内実が「説明」を乗り越えてしまうことはあるだろうし、「指し示す」とはまさにそのことでしょうが。若い人とシナリオを作っていて、よく出会う「説明」は西山さんの言う通りですね。まるで「説明」がしたいから映画を作ってるような奇妙な転倒が起こりがちです。
 宮田亜紀ちゃんは、僕は人形のような顔が出せる人だと思います。たとえば、深い恨みを表したい時、個人の憤激といったものが感情として出てもたぶん、それは違う。もっと自分の感情とは違う恐ろしいものとつながってないといけない。それはむしろ人形の顔のようなものに近いのではないか‥‥、ということで、僕は「感情」ではなく「フォルム」の方に行くのでしょう。しかし、フォルムもありきたりに陥る罠はたくさんあるので、いろんなアプローチを考えなきゃいかんなあと思います。
 そうか、メロディですか‥‥。僕は考えた事もなかったでした。ずっとリズムのことを考えていて。台詞を書く時もリズムで考えてましたね。『ヴィデオドローム』の台詞がカッコいいなあとか。でも僕は普段はほとんどメロディと共にあり、鼻歌をやってるんですが、あれって感情と関係あるんでしょうか。


西山洋市
「フォルム」といわれるものがどういうものかよく分からなかったのですが、「人形」と言われてなんとなく分かってきました。確かにただ個人的な感情を描くだけでは表現としては小さいところに留まってしまうかもしれません。個人の感情を超えた大きな何かとつながるもの、それは「フォルム」というより「風格」なのではないかと僕は思います。「人形の顔のようなもの」を「フォルム」として作ろうとすると味気ない単純化の罠に落ち易いような気がします。役の「風格」を演出するというヴィジョンが感情表現にも豊かさと深さをもたらすのではないかと思うのです。
「風格」などという言葉は誤解されやすいかもしれませんが、例えば「品格」は役の個的なキャラクターに内臓されるものですが、「風格」は役の個的なキャラクターを超えた何かから来るものです。だから「品格」がない役にも「風格」を演出することは可能です。というか、「風格」は劇映画の演出の根幹に関わる概念かもしれないとさえ最近は思っているくらいで。たとえば「恐ろしいもの」にしても、必要なのは「風格」なんではないか。「風格」のあるホラーは、怖さの図式を超えてより恐ろしい。
だから、「人形のような顔が出せる」かどうかではなく「風格が出せる」かどうかだと思うのです。そして、それはもっぱら演出家のヴィジョンの問題なのではないかと思います。


高橋洋
この前の文章で、個人の感情ではない云々と自分で書きながら、そうか、「感情」という言葉にひっかかるのは、それが個人の内面やら心理といったものに収斂してしまいがちになるからだったのだなと、気づいた次第です。昔、『ヒッチコック映画術』を読んだ時、「エモーション」という言葉がひどく気に入って、まあ、「感情」とも訳されますが、確かその本では「情動」と訳してあって、そうだ、それなんだ、空間も含めた動きによって表されるものと捉えた方がピッタリくるんだと、そう思った語感がずっとあるのでしょう。
 僕は、映画の人物を考える時、その人が等身大の人物に見えてしまうとどうも面白くない、大げさに言えば神話の中の登場人物のように感じられなければ、と思うのですが、それもまた人間の等身大の輪郭に収まり得ない「エモーション」を立ち上げようとしているからであり、たぶん西山さんの言う「風格」はこのニュアンスに近いんじゃないかと思います。
 しかし、そもそも、まず我々の実生活に「等身大の人物」なぞいない。我々の周囲にいるのは、千変万化するリアクションの束といった存在たちであり、時として人は生きながら「ありきたり」になったりもしますが、それすらも「この人は何かの呪いにかかっているのではないか」と興味津々で見つめたくなる、そういう魅力を放ったりする。
 つまり「等身大の人物」とは、(ドキュメンタリーも含めた)フィクションの制作過程で発生してしまう、一種の「観念」なのであろう。「フォルム」であれ「風格」であれ、それが現実に翻案されるべき「観念」のように働いてしまうと、それは何かの「意図」の達成という味気ないものに終わり、肝心のものを取り逃がすのではないか。
 じゃあ、実生活で千変万化している人をそのまま写せばいいという話ではむろんない。待ち時間の方が俳優が魅力的だった、なんてことはしょっちゅう眼にしますが、それはその俳優を見つめる上で大切な視点だろうけど、そのままキャメラの前に移動して来て貰えばいいということではない。演ずべき役があり、そして役には「感情」がある‥‥。
 と、ここまで考えて、改めて役の「感情」って何なのだろうと思いました。以前、俳優が「感情を作る」って何なのだろうとも書きましたが、何やら最近出演する機会がやたら多く、主に演ずる側から浮んで来た疑問のようです。以前は「空っぽのままでいよう」と思ったし、それを要求されたりもしましたが、何か最近はちょっと違うような‥‥。
 「人形」というのは、「フォルム」の一つだと思いますが、俳優に対して言えることではないですね。「出てしまったもの」として初めて言えるような。しかし「もっと強く」とか「抑えて」とかいった言い方は僕にとっては「フォルム」の模索から「エモーション」を立ち上げようとしているように感じられます。
 ホラーの話も実に興味深く、『グロヅカ』にも触れたいのですが、また後日。


西山洋市
たぶん「役の感情」と俳優が「感情を作る」ということは別のレベルの話で、「感情を作る」というのは、その役を演じる上での気分を作るというようなことだと思うのですが、僕は、演出的には「役のノリ」を掴んでもらうと言ったほうがいいのではないかと思います。
「ノリ」というと音楽的で軽いニュアンスの言葉ですが、役をある音楽的なトーンで掴まえて、それにノッて歌い踊るかのようなイメージの「ノリ」で、ノッてもらうにはエモーショナルなきっかけが必要です。例えば、役者がキャラクターの人物像を内面的に捉えるところから出発して音楽的なトーンを掴まえるに至る場合もあれば、逆に、演出家による外形的なものの操作で音楽的なトーンを作り出し、それが役の感情を導き出すという場合もある。高橋君の言う「もっと強く」とか「抑えて」という操作がまさその一例ですね。この辺は、高橋君の言う「フォルム」を通じて「エモーション」に至るという考え方とほぼ同じだと思うのですが、しかし、そうして立ち現れるエモーションを持続させるのがなかなか難しい。以前、音楽的トーンとして作ったはずのものが、ある「意味」として解釈されることで、ありきたりな感情に翻訳されてしまうという失敗をしました。その翻訳のメカニズムがそのときには分からなかったので、芝居としては同じようなことが行われているのに何故つまらなくなってしまったのだろうとずっと疑問だったのですが、高橋君の「等身大」の話でやっといま、そういうことだと分かりました。失敗の原因は、外形的なものの操作にばかり気を取られて、そもそも「役のノリ」を掴まえるというコンセプトがなかったからです。「役のノリ」が分からなければ、外形的なものの操作が意図するところも理解できません。一時的な「ノリ」だけで一時的に立ち上がったエモーションはそれこそ軽く忘れられてしまい、「外形」ばかりが残されることになる。その空っぽの「外形」に、本来は無かった「意味」を盛り込まなければ、その「外形」を演じる根拠が失われてしまうのです。このように「等身大」化されることで、役の「風格」も消えていました。コンセプトの無い演出はおおむね失敗に終わります。「イタリア式本読み」は、時間をかけて「ノリ」を掴んでゆくための一つの方法なのかもしれません。


「もっと強く」とか「抑えて」という言い方は楽譜に書いてある演奏記号みたいですよね。クレシェンドとかフォルテとか。増村保造が役者に対して常に言っていたという「強く」「あえいで」「死にもの狂いで」(でしたっけ?)も音楽的で、しかも作品の「ノリ」を指し示しているような感じです。増村はいつもその3ワードしか言わなかったと言いますが、増村が奏でようとしていた音楽的なトーンを終始一貫作るために、それらの増村的演奏記号を多用する必要があったということなんでしょう。人物たちは増村的なトーンにノリ、そのトーンを「等身大」に矮小化することなく、役の感情であると同時に観客の感情も動かすような強いエモーションを喚起し続けている、あるいは、エモーションそのものと化しているといってもいいかもしれない。そういう状態に至るためには、強い意志が必要なのだと思います。


 考えてみれば、僕もしばしば、いくつかの決まった言葉で役者に注文を出していたような気がします。『INAZUMA稲妻』「出演者のコメント」で松蔭浩之が書いている回想を読んで「あ、そうだった」と思ったのですが、「そっけなく」がその一つでした。


 ヒッチコックのエモーションというのは、役の感情というより、「サスペンス」によって観客の側に喚起される感情という意味が大きかったように思います。しかし、「空間も含めた動きによって表されるもの」という高橋君のエモーションの理解は、非情で音楽的なものだという気がします。感情なのに非情とはおかしな言い方ですが、しかし非情も感情の一部かもしれないし、むしろ感情表現の極北かもしれない。また非情という感情は音楽的にしか表現できないものかも知れないとも思います。というわけで、高橋君の鼻歌は低いトーンで非情のメロディを奏でているのではあるまいか、という美しい仮説を立ててみたいのですが。


高橋洋
なるほど「ノリ」ですか。
 最近、『嫌われ松子の一年』という中谷美紀の本を読んだんですけど、松子に近づくために肉体と声と「私の感情」を利用するという風に書いてありましたね。役の感情が外からの刺激で壊れてしまわないように、スタッフとの会話の仕方もケース・バイ・ケースで気をつけるとか。しかし、演出する側は、血糊の流れるタイミングとか視覚効果も全部含めてテイクを重ねるので、場合によってはすっかり感情を使い果たしてしまったり、頭の中の開けていけない部分が開きそうな気がしてきて怖くなったり‥‥するんだそうです。
 ふーむ、あるいは「感情を作る」というのは、この「私の感情」を利用するということなのかしら。そういう一種内面的なアプローチから掴んだ「役の感情」が「ノリ」で。どうなんでしょうかね。僕には自分の感情を利用するなんて、そもそも技術としてとても出来ないですけど。ああ、そういえば、以前、メソッド演技って何なのだろう?という話もしましたね。


 話は変わりますが、僕がよく鼻歌でやってるショスタコーヴィチも、演奏の時「もっと速く(遅く)!」「もっと大きく(小さく)!」の4種類しか言わなかったそうです。
 僕はすぐ頭の中で音楽が鳴ってしまって、それはおおむねヴィジョンと同時にやって来たりするから、切り捨てるのも難しいんですが、しばしばその音楽性が、現場から発見されるべきものを無理やり決定づけてしまうような面もあるかなと、そこが悩みどころです。ヴィジョンがそのまま「幻視」にまで突き抜けてしまうと、だんだん言動がおかしくなってきて、「結局あんたが一番面白い」ということになってしまいかねないなと。しかし、すぐに音楽が鳴る‥‥。
 たぶん気が短くて、オーケストラの指揮者みたいにヴィジョンを一挙に鷲?みにしたいのでしょうね。いや、オーケストラの指揮者も、見ているとホントにおかしいが、その前に粘り強く音を探るプロセスがあるのでしょうが‥‥。


 西山さんが言う「外形」に「意味」を盛り込むという話、その「外形」はいわゆる「フォルム」だけではなく、「物語」というものも含むのではないでしょうか。ソドムBBSでガス・ヴァン・サントのリメイク版『サイコ』についてちょっと書きましたが、あの物語をもう一度演出する際に、「外形」として与えられた物語に、何を盛り込もうとするのか、サントはどんな根拠をそこに見出したのか。
 で、この辺から、『グロヅカ』の話になるんですが、僕がこの映画がかなり面白かったのは、西山さんがこの物語に向かい合った時に探り出した根拠のようなものが画面の彫りを深くしているように思えたからですね。そこがなかなか上手く言えないんですが、こういうあるジャンルのパターンに従った物語だからこそ、それが強く出たんじゃないかと。
 このコメントのやり取りでは「ありきたり」ということがほぼ否定的に扱われてますが、こと「物語」に関しては、図式レベルから細部の語りレベルまでの振幅があるのであり、それらはすべて関連し合っている、そして図式レベルにおいて「ありきたり」は実は重要なのだと僕は思うのです。実際、それを否定したら、同工異曲なプログラム・ピクチャーの豊かさはあり得なくなってしまうわけですから。世の中ではよく「物語はありきたりだけど、演出がいい」みたいな言い方がされますが、僕はいつもそこがひっかかる。確かに乗り越えるべき問題を放置しているホンはあるだろうし、ライターが楽をしていいということではないのだけど、いや、それこそ放置されているが故に開かれてしまった回路すらある、というぐらい、物語という事態は複雑なプロセスを経るのだ‥‥。
 と、前提が長くなりましたが、とにかく西山さんは実はホラーやスリラーに向いてると思ってる人は僕を含めてかなりいるはずです。で、具体なんですが、うーん、言葉にしにくい。
 とりあえず、振りやすいところから言うと、映芸にも書きましたが、あの8ミリフィルムは怖いですね。あそこにある「根拠」は何なんだろうなと思います。それと、しょーもない指摘ですが、8ミリの最後のカット、背景にドクロのようなものがずっと写ってますよね。あれは狙いなんでしょうか。もっとも、その後、撮影した場所が登場すると、そこにも同じものが見えるから、ほんとに紛らわしい何かがあったのかも知れませんが。