永遠の5月23日(2)

西山洋市
「私の感情」を利用するというのは「メソッド演技」の方法のひとつですね。「役の感情」を掴むために自分の「感情の記憶」を探ってゆくというようなアプローチだと思うのですが、そういうことを深く突き詰めてゆくと「頭の中の開けていない部分が開きそう」みたいなちょっと精神分析というのか心理分析というのかセラピーの深い段階みたいなものに近い状態が来るんじゃないでしょうか。「取り憑かれた様な演技」といわれるような状態でしょうか。しかし、僕が考える「ノリ」というのは、そうして掴んだ「役の感情」そのものではなくて、さらにそれが音楽的なものに昇華された状態、というか。それを「フォルム」というのかもしれませんが、「フォルム」が立ち上がれば、逆に、その根拠になった内面はもう無くてもいいというか。前回書いたその反対の手順の場合、まず外形的な操作があって、それによってあたかも内面的な根拠さえあるかのようなフォルムが立ち上がったとしても、そのフォルムを「私の感情」に照らして解釈するとこういう「意味」になる、という逆の経路を辿った場合、内面的なだけの芝居にスケールダウンしてしまう、ということなんですが、「ノリ」というのはそういうふうにいろいろ解釈したりしない、考えない状態で、役を演じて見せている、開かれた状態というのか、ひとつの意味だけに収束していない、つまり自由な感じです。


 高橋君のリメイク版「サイコ」に対する分析は、「演出」の根幹に関わるかなり大事なことを言っていると思います。サントの根拠はリアリズム、というか今時のリアリズムなんではないかと思うのですが、「サイコ」という外形を今時のリアリズムという文脈で解釈し、解説するとこうなる、という感じでしょうか。つまり、今時のリアリズムという「意味」を盛り込むことで「等身大」化され、「風格」が失われたのではないかということなんですが。


「グロヅカ」については、自分ではよくわかりません。何かを探し続けていたことは確かなんですが。それは「意味」というより「コンセプト」なんですが。「ありきたり」なのは、実は物語ではなくて、その物語に対するアプローチの仕方、つまり「コンセプト」なのではないか。とすると「物語はありきたりだけど、演出はいい」というのはありえない。物語を「ありきたり」に見せている演出のコンセプトが「よくない」んです。逆に、「物語はいいけど、演出はありきたりだ」という場合もあるわけですが、この場合の「物語はいい」というのも実は物語に対するアプローチがいいということで、ということはいかに地味にみえようとも実は「演出はありきたりではない」のです。映画の「演出」ということを表面的に映像のテクニックだけで捉えているから、こういう「演出」の本質に関わることが誤解されてしまうのだと思います。「演出」の根幹にあるのは、物語に対するアプローチの仕方、その「コンセプト」です。


「放置されているが故に開かれてしまった回路」ですが、恐らく、放置されたところには何らかの突飛な飛躍なり矛盾なりがあって、その飛躍を埋めるため、矛盾を解消するための、合理的な意味なり解釈なりをそこに盛り込んでしまうか、反対に、飛躍や矛盾を映画として生かせるか、によって回路が閉じるか開くかが分かれるということでしょうか。飛躍や矛盾をどう捉えるかという大きな演出のコンセプトが新しい回路を開くのかもしれませんが、僕もどうしても合理的な整合性を求めてしまいがちです。大きな視点に立ったのびやかな演出にあこがれます。


 8ミリフィルムは、シナリオではビデオテープと書かれていたもので、それを8ミリフィルムに変更したのは演出です。8ミリの荒い画調とか何より音が無いのがいいと思ったのです。DVのぴかぴかの画質や同時に簡単に録れてしまう音によって被写体から失われてしまうもの、それも「風格」と言ってもいいのかもしれないのですが、まあ、ホラー的な効果として8ミリを選んだわけです。
 背景に移っているドクロのような模様は、ロケ場所の古い苔むした石垣に最初からあったものです。カメラで撮ったら意外に目だって見えただけです。


高橋洋
「物語はありきたりだが演出がいい」という言われ方がなされる場合、それは「演出」を視覚的な工夫といったレベルでしか捉えていないということも一因だと思いますが、もう一方で、人はしばしば物語を、図式あるいは形式性といった、個々の語りの局面を捨象し、抽象化したレベルで捉えているからではないでしょうか。しかもこの種の図式性、形式性は、あながち的外れな単純化によるものでもなく、実はジャンル映画に固有のものとして単体の映画に先行して存在し、その映画の企画段階からの存立を左右する要素だったりする。商業映画の場合、特にこの要素は重要になってきますね。
 『グロヅカ』で言えば、これはまずホラーであり、それも見知らぬ土地にやって来た若者たちが次々と犠牲になるという、おなじみのスラッシャー・ムービーの形式を踏まえている。その上にこれはまた「フー・ダニット」(犯人探し)という形式をも踏まえており、この種の形式のホラー映画は、アルジェントやマリオ・バーヴァの諸作などが最近では「ジャーロ」と呼ばれたりしてますが、いや、イタリアに限らない、『スクリーム』シリーズなども含む、ミステリーの世界でいえば「金田一シリーズ」から「火曜サスペンス劇場」の大半を支える巨大なサブ・ジャンルなわけです。
 この「フー・ダニット」は映画において実に不思議な機能をするもので、物語に関わっていた人物が実は犯人という意外性を狙った形式と思える一方で、それとはまったく真逆のこと、即ち、登場人物の誰かが犯人に決まっているのだから、それが誰であるか、あんまり期待しない、「観客は誰かが犯人であることを諦めている」という大らかな予定調和が呼び込まれ、容認される世界でもあるわけです。ホラーに限らずミステリにおいても映画が「フー・ダニット」でベースとするのは、しばしば後者の大らかさであることは周知の通りですね。
 しかもです。『グロヅカ』はさらに「映画内映画」ホラーとも言うべき、サブ・ジャンルと呼べるほど作品数は少ないですが、ある図式性を決定づける世界を物語のベースにしている。
 スラッシャー・ムービーであることは、実はあまり観客に図式性を意識させない。その即物的でシンプルな設定が、魅力的なディティルを呼び寄せることを観客はよく知っており、だからたとえば『悪魔のいけにえ』を「物語はありきたりだ」などと言う人はあまりいないわけです。
 ところが「フー・ダニット」と「映画内映画」はそれ自体が固有のロジックを呼び込むために、なかなか厄介なことになる。「映画内映画」が呼び込むロジックとは、つまり、ある問題のフィルムがあり、それを見た人々は影響を受ける、といった因果律ですね。僕自身の仕事で言えば、『女優霊』や『リング』シリーズがこれであって、いささかの自負をもって言うと、僕はこの種のテーマにおそらく世界で一番深刻に取り憑かれた作り手だと思っております。
 またもや前提の話が長くなってしまいましたが、僕はかつてのVシネマに近い製作規模の中で、この種の図式性と向かい合った西山さんが、人物を描くことの根拠と、そうした人物の存立を無視しかねないロジックの存在との葛藤からどう「演出」を立ち上げていったのか、とても興味がありました。
 そして『グロヅカ』は、僕自身が「映画内映画」のもたらす因果率をどう裏切り、より自由な世界を切り開くかという試行錯誤に対する、実にあっけらかんとした可能性をも提示したように思えたのです。しかし、それでも僕はこの因果律を超えた何かを見つけ出そうと『女優霊2』で苦しんでいるのですが‥‥。
 「映画内映画」に登場する二つの映像、一つは例の8ミリであり、もう一つはビデオ映像ですが、いずれも重要なショットに撮影者が不在であったというのは、この二つの映像を演出する上での重要な根拠ではなかったでしょうか。特に8ミリの映像においてはそのことが画面の異様な構図を呼び込んでいる。確か、ここで被写体となっている人たちは能の動きが出来る人にわざわざ来てもらったのでしたっけ? そういうことにも重要な根拠があるかと思います。低予算映画ではなかなか出来ない贅沢ですから。
 一方、ビデオ画像の方でひじょうによかったのは、その画像を再生している森下千里が、画面内の仲間が演じる仕草に、思わずクスッと笑ってしまう箇所でした。すでに不安な状況が迫りつつあるにもかかわらず、というアイデアは比較的思いつきがちなアイデアでしょうが、何というか、その後に来るショック・シーンの伏線以上の、「芝居」を見たという気がしたのでした。とりあえず、眠くなって来たので、この辺で。


西山洋市
僕は「ジャンル映画」というのがよく分からないんですが、最初にシナリオを読んだときには、「13日の金曜日」や「スクリーム」や「獄門島」などの横溝物は確かに想起しました。「映画内映画ホラー」というのは概念としては意識しませんでしたが、「ビデオドローム」は想起してました。正体不明の「スナッフフィルム」にとり憑かれてヤバイ世界に踏み込んでゆくというドラマと、画面の中とこちらの現実が地続きであるかのような感じ、からでしょうか。昔、テレビで撮った「ホームビデオの秘かな愉しみ」という作品では、スイッチを切り忘れたビデオに、部屋にいないはずの見知らぬ女が写っているのですが、そのビデオの中では、こちらの現実とは違う事件が進行していて、それがだんだんこちらにまで影響を及ぼしだすという感じでした。この作品のことは、今回、「映画内映画」という指摘を聞くまで忘れていましたが、同じようなことを自分でやっていたんですね。
「グロヅカ」に出てくる2本の自主映画では、8ミリ映画ではカメラマンなしの据え置きカメラで撮っているために、鉈を振るう人物は写っているけれど、殺される人は画面の外に切れてしまう。ちゃんと写っているのは最初の一撃だけなんですが、だからこそ、そこで行われていることは自主映画の芝居ではなく、本当の殺人なのではないかと感じられるんですね。けれども、それを見た犯人に決定的な影響を及ぼしたのは、そのフィルムだけではなくて、そのフィルムを撮ったのであろう映画研究部にまつわる不気味な噂話だったかもしれない。音の無いフィルムに噂話と言う形でナレーションがついたという感じでしょうか。このナレーションによってフィルムに方向性と勢いがつき、ひとつの作品として動き出してしまったというか。
 もうひとつの自主映画はビデオだから音声もついている。仲間の女の子たちの他愛の無いやり取りに森下千里が笑ってしまうのはそういう音が付いていたからです。このとき、画面の中の女の子たちと、それを見ている森下千里の現実は地続きです。その地続きの映像の中にいきなり、現実にいるのかどうかわからない殺人鬼が現れるのですが、しかし、この映像もカメラマンなしの据え置きで撮られていたために、現実性は曖昧な感じになってしまう。しかも、ビデオテープが途中で切れたために、ここでも殺人の全貌は見ることはない。というか、そもそも殺人が行われたのかどうかさえ、分からない。にもかかわらず、というか、だからこそ、殺人鬼の実在を確信する。というより、むしろ、彼女は殺人鬼の存在する場所と自分の現実が地続きであることを強く意識させられ、切れたビデオの先に、自分たちがいるこの時間と場所が続いていることを確信する、という感じでしょうか。
 いずれにしても、高橋君の指摘のとおり、カメラマンという存在がないために、画面の向こうとこちら側が、現実と虚構がない交ぜになった次元で地続きになってゆくというのが、「グロヅカ」のドラマの根底にあるのだと思います。
 8ミリを、例えば助監督たちだけの素人芝居で撮ることもできたわけですが、そうせず、能の出来る人に出てもらったのは、その画面の向こうが最初はこちらの現実と地続きではない、異次元であるような感じを出したかったのだと思います。