『おんなの細道 濡れた海峡』を読む4(井川耕一郎)

 赤ちょうちんで島子の抜けた歯を飲みこんでしまったボクは、翌日、海に面した断崖でカヤ子と並んで用をたします。カヤ子はヒラさんの漁船が着く△△港まで行くと言う。行くあてのないボクはカヤ子と一緒にその港町まで行き、ホルモン焼屋に入るのですが、そこでカヤ子はヒラさんについてさらに詳しく語ります。
「ヒラさん、九州に奥さんも子供いるの」「九州、熊本県の三角って港。知ってる?」「私がいるもんだから無理してこっちまで稼ぎに来るんだけど」「ホントなら三角港から東シナ海の方へ出かけてる筈なのよ。その方が楽なのよ」「ヒラさん、三角に帰ったんじゃないかな。私が重荷になったんじゃないかな。……そんな気がする」
 カヤ子とヒラさんの関係はボクと島子の関係に似ています。相手が結婚しているという点では、ボクはカヤ子に似ているし、男女の関係から逃げだそうとしている点では、ボクはヒラさんに似ている。だから、島子を見捨てて新たに結びつく相手として見れば、カヤ子はあまり適切ではない。ですが、ボクはカヤ子とずるずると飲み続けてしまいます。

(27 △△港・夕暮)
カヤ子「ヒラさん、三角に帰ったんじゃないかな。私が重荷になったんじゃないかな。……そんな気がする」
ボク「どうして」
カヤ子「昨夜のヒラさん、きちがいみたいだったもん。あれから夜が明けるまで、ずっとよ。凄かったもん」
ボク「…………」
 ボク、なんだか白ける。
ボク「のろけてんのかよ。イヤな趣味だね。深刻趣味ってんだ、そういうの」
カヤ子「そうね、私って思い詰めるタチだから。思い詰めるくせに、ふっと気が狂って、まちがい起すタチだから」
ボク「まちがい……?」
 カヤ子、気だるく頬づえついたまま、変に正面切ったふうにボクを見つめる。
カヤ子「…………」
ボーッと霧笛が鳴る。


 そうして、次のシーンでは、やはりこうなってしまうのです。

28 旅館の浴衣の前をひろげて、ボクはカヤ子の胸にさわる。カヤ子、痛いと眉をしかめる
カヤ子「ゆうべの今夜だから、まだ痛くて」
 と言いながら、半身をひねって自分からパンティを脱ぐ。
 うらぶれた商人宿の一室で、蒲団は一つしか敷いてない。その上でボクとカヤ子は体を合わせようとしている。
ボク「いいのかな」
カヤ子「いいのよ」
 ボク、小さな乳首をくちびるで挟む。
カヤ子「やっぱり痛いわ」
 ボクはお医者さんみたいにカヤ子の体のあちこちを手探りする。そのたびにカヤ子、ア、痛い、と呟く。
カヤ子「ゆうべのヒラさん、気がちがってたから」
ボク「……やめとこうか」
カヤ子「ううん」
 カヤ子、ハッキリと意志的に首を振る。
カヤ子「続けて」
 ボクの手はカヤ子の下腹をさまよっている。
カヤ子「ア」
ボク「ここも痛むのか」
カヤ子「ア」
 カヤ子、腰をよじるように上げる。
カヤ子「ごめんね。……あんた、やさしいから。甘えちゃって……ごめんね……」
 カヤ子、脚をひらく。ボク、入ってゆく。


 カヤ子が体に触れられて痛がるたびに、ボクはヒラさんのことをどうしても意識してしまいます。それで、ボクは中に入ったあとも、「いいのかな。入口でやめといた方がいいんじゃないかな。……奥まで入っちゃうと、ヤバいことになるんじゃないかな」と呟く。読んでいて笑ってしまうひとりごとですが、このとき、ボクは「ヒラさん―カヤ子―ボク」の三角関係と「社長―島子―ボク」の三角関係を重ね合わせています。要するに、ボクは島子から逃げだそうとしたけれど、島子はカヤ子に乗り移ってボクをつかまえたというわけです。
 それにしても気になるのは、カヤ子の「そうね、私って思い詰めるタチだから。思い詰めるくせに、ふっと気が狂って、まちがい起すタチだから」というセリフです。自分のことを突き放したように語る言葉が、ボクを誘うセリフだというのが何だか奇妙ですね。そこまで冷めた目で自分を見ているのなら、まちがいなど起こさずにすんだのじゃないか、とさえ思えてしまう。いや、まちがいが起きなければ、話にならないわけですが、だったら、思い詰めた果てに急に泣きだしてもいいわけです。ボクとカヤ子が寝るに至る展開としてはそれでも問題ないでしょう。だが、そうしなかったのはなぜなのか。カヤ子にとって、まちがいを起こすとはどういうことなのか。
 このことを考えるために、ちょっと回り道をして、田中陽造の他の作品を読んでみます。『新・居酒屋ゆうれい』(監督:渡邊孝好)の中から、かづさ屋の主人・荘太郎(舘ひろし)が客の佐久間(津川雅彦)に連れられて青柳という鮨屋に行くシーンです。

(31 鮨屋・青柳・座敷)
 白い手が暖簾の陰から伸びて、盆に乗せた河豚の握りを差し出す。
 隣に紅葉を散らしたタレ。
荘太郎「夏に河豚か。趣向ですね」
 と口に運んで、
荘太郎「あ……」
佐久間「……そうなんだよ」
荘太郎「佐久間さん……いけませんよ」
佐久間「いいんだ。私は、いいんだ」
 佐久間、職人にテッサを注文する。
佐久間「タレ、もっと濃くして」
 白い手がテッサとどろりと濁ったタレをすっと押し出す。
 荘太郎、じっと見ている。
荘太郎「佐久間さん、変だ」
佐久間「え?」
荘太郎「何だか、変だ」
 佐久間、盃をポロリと落とす。
佐久間「痺れてきた……」
荘太郎「……」
佐久間「私……癌なんだ」
荘太郎「え?……」
佐久間「医者に告知された。私はそんなに長くない……」
荘太郎「それで、蒸発……」
佐久間「せめて、好きな所で死にたいと思った。かづさ屋の煮込み食って、刺し身食べて、旨い酒飲んで、常連の皆さんと笑い合って……」
荘太郎「ここは、かづさ屋じゃありませんよ」
佐久間「すまない。ここは毒を食わせる」
荘太郎「……」
佐久間「体が痺れて、痛みが消える」


 補足説明しておくと、タレの中には河豚の肝がといてあるということになっています。田中陽造は『新・居酒屋ゆうれい』の脚本が載った「月刊シナリオ」96年11月号にこんな前説を書いています。「河豚を捌く女という設定は書きはじめて半分くらいのところで思いついた。九州の大分では今でも河豚の肝を食する。時には死人が出るという。その毒を商う調理人と決めた時、これは出来るかもしれないと、希望のようなものが沸いた。荘太郎がその毒に触れたら、映画になるかも知れないと思った」(エッセイ「居酒屋の危うさを」)。
 ところで、佐久間ですが、「かづさ屋の煮込み食って、刺し身食べて、旨い酒飲んで、常連の皆さんと笑い合」いたいというのは分かります。死を前にして思い残すことがないようにということでしょう。しかし、青柳で河豚の肝を食べるというのは、それとはちょっと違うようです。佐久間は「体が痺れて、痛みが消える」と言っている。どうやら微量の河豚の毒をモルヒネのように見なして体に取りこんでいるのですが、このとき、痺れているのは佐久間の身体だけなのでしょうか。
 たぶん、佐久間は河豚の肝を食べることで、死の恐怖も麻痺させようとしているはずです。癌は佐久間に死の恐怖をもたらした。その恐怖を乗り越えるにはどうしたらいいか。そこで佐久間が考えたのは、「癌―自分」の関係を自分の「精神―肉体」の関係に応用・反復しようということでした。つまり、癌が自分に死の恐怖をもたらしたように、自分で自分の身体に河豚の毒を与えてみる。もちろん、末期癌であることに変わりはないのだから、そんなことをしたところで根本的な解決にはなりません。しかし、自分に対する癌のあり方を真似してみせることで、わずかでも死の恐怖を麻痺させることができるのではないか……。佐久間はそう考えて、河豚の肝を食べているにちがいないのです。
 同じことはカヤ子にも言えるでしょう。カヤ子は、ヒラさんが自分を捨てて妻子のもとに戻ってしまうのではないか、とひどく不安になっている。その不安を乗り越えようとして、カヤ子は「カヤ子―ヒラさん―ヒラさんの妻」という三角関係を真似した「ヒラさん―カヤ子―ボク」という三角関係をでっちあげようとしているのです。要するに、カヤ子は自分を捨てようとしているヒラさんの立場を真似しようとしている。ボクと寝てヒラさんを裏切る役を演じることで、ヒラさんに捨てられる不安を少しでも麻痺させることができる。そうカヤ子は考えたのでしょう。
 とここまで話してきて、田中陽造の特徴が少しだけ見えてきたような気がします。田中陽造田中陽造らしさとは、情念、妄執、欲望、そういったものに対する距離の置き方にもっともよくあらわれると言えるのではないでしょうか。ある情念にとらわれた登場人物が出てきても、田中陽造の関心は情念そのものにはないのです。おそらく、情念と知性の関係こそが最大の関心事なのではないか。まるでひとごとのように自分のことを語る口ぶりや、ある問題を似た形式の別問題に置き換える操作などは、情念に対して知性が作動した結果であると言えるでしょう。もっとも、知性が作動したからと言って情念が消滅するわけではない。逆にかなり屈折した形で情念の強さが表現されてしまうわけですが……。