シニカルな痴漢たちのユートピア―――大工原正樹『痴漢白書8』(非和解検査)

『痴漢白書8』の物語は、結婚を間近に控えた看護士・みゆき(岩崎静子)が電車の中で官能小説家・倉持(諏訪太朗)に痴漢行為をされるところから始まり、婚約を破棄して倉持を選ぶところで終わる。この《倉持を選ぶ》に至るまでのいささか胡散臭い過程をいかに描いていくかが演出の焦点となってくるはずであり、作品にはそのために配されたであろう細部が散見されるのだが、それらはこの過程に説得力を与えるように機能しているというよりは、むしろその逆に働いているようにさえ見える。すなわち、物語が進行するにつれて、みゆきが《倉持を選ぶ》という行為がありえないことのように思えてくるのである。
 みゆきにとって倉持はどのような人物であるだろうか。彼は電車内でぶつぶつ歌いながら彼女の尻を触る痴漢であり、剃毛されるために下半身を曝け出している虫垂炎の患者であり、自分ヘの痴漢行為の体験をそのまま綴った破廉恥な官能小説の書き手である。これらのエピソードから形作られる倉持のイメージは利己的で情けない風体の変質者というものであり、基本的にラストまでそのイメージは揺らぐことはない。いや、むしろ物語が進んでいくほど、そのイメージは悪化していくといってよいだろう。みゆきの自動車からガソリンを抜き、わざと停車させたところに偶然を装って現れたり、モデル小説を書いたことに怒る彼女の前で放屁をしたり、彼女が勤務する病院に忍び込み、ナイフをかざして脅したりと、倉持の所業は彼女の感情を逆撫でし続ける。また、倉持がみゆきに自分が痴漢行為やモデル小説を書く動機について語るエピソードも存在するが、曰く、あなたの尻の感触が自殺を思い止まらせた、曰く、あなたをモデルにすれば原稿を書ける気がする、といったように、その告白はあまりにナルシスティックであり、やはり彼に対して彼女が抱くイメージを覆すことはないだろう。観る者も、倉持のひどさにある種の興味を覚えこそすれ、共感や魅力といったものを感じることはない。まさに観客の代理としてみゆきの祖父が―――彼は彼女の結婚に何となく不満や不安を覚えているのにもかかわらず―――断言するように、《あいつはダメ》なのである。
 だが翻って、倉持の目にみゆきはどのように映っているのだろうか。みゆきは倉持にとって魅力的な存在なのだろうか。しかし、これも実に曖昧なのである。彼の彼女に対する思い入れは、彼女に痴漢行為を働くことによってこれまでにない新しい小説が書けるかもしれない、という一点のみにある。これでは昆虫の観察日記をつける小学生のようなものであり、そこには人間的な愛欲のようなものが感じられない。事実、しばしば倉持はまるで人間ではない機械のように行動する。前述したガソリンを抜き取る作業の際の倉持には、女を付け狙う男の妄執のようなものは感じられず、むしろただただ義務を果たしているだけだというような淡々とした風情が漂うのである。また、病院に忍び込んだのも、みゆきを暴力的に所有したいという欲望からではない。倉持は担当編集者に原稿を読んでもらい、二つのことを指摘されていた。1)自転車の後ろに乗っている女が失禁するまで―――これは、倉持が実際に体験したことである―――は妙に生々しいが、それ以降は下手な文芸作品のようにつまらない、2)以前に倉持が好んで書いていたような拉致・監禁、レイプを題材にした原稿を書け・・・倉持は、1)の指摘からみゆきとの体験が自分に新しい霊感を与えていることを確信することになり、2)の要請に忠実に従って彼女を相手にそうした暴行を働こうとしただけなのである。ところで、こうした1)や2)という契機は、表現者が日常的に経験するものではないだろうか。あらゆる作り手たちは、1)のように喚起力のある題材を発見することや、2)のように他者からそうした題材を与えられることを求めている。本作は『痴漢白書』シリーズの終盤近くに製作され、さらにいえばピンク映画草創期から連綿と続く《痴漢もの》の末期に位置する作品であり、ジャンルが新たな作り手たちに具体的な欲望や実感を提供したり喚起したりする能力を失ってしまった段階においてしばしば作られる《表現》や《表現者》についての作品の一つといってよいだろう。《痴漢もの》映画の作り手たち自身を主人公とした『痴漢白書10』(山岡隆資/脚本・井川耕一郎)もそういった作品であったが、作り手たちはジャンルの非生産性にシニカルに対応しているのである。倉持のみゆきに対する身振りは、そうした作り手たちのジャンルに対する身振りに似てシニカルである。彼はみゆきに魅力を覚えるから拘泥するのではない。むしろ、みゆきの魅力というものが存在すること、自分に魅力というものを感じる能力が存在することを信じないがゆえに拘泥するのである。そもそも《痴漢》たちは、対象となる女の顔や目を見ることはない。痴漢にとってそうした身振りは、自分の顔や目を見られる可能性を増すという意味で危険な身振りであり、極力避けなくてはならないものなのである。また、たとえ見たとしてもそこに彼らはその女の魅力を見たりはしない。彼らが欲しているのは、《ある女》《女というもの》の感触や体温であり、《その女》を感じることは禁じられており、また不能なのである。本作においても、倉持はみゆきの体を触る際にその目や顔を見ようとはしていない。また、彼は失禁したみゆきに着替えの服を贈るのだが、それは彼女に全く似合っていない。彼は彼女を見ていないのである。唯一例外的に、病院において剃毛される際に倉持はみゆきの顔を見ようとする。だがその行為は、彼女の同僚である看護士(長曾我部蓉子)によって妨害されるのである。
 さて、本作においては倉持が禁じられ、不能であるように、みゆきもまた禁じられ、不能であることが示唆されている。みゆきの祖父が語るように、彼女の両親は愛欲のもつれから無理心中的な死を遂げており、それ以来彼女は欲情を持つことに対して極めて抑圧的になっているのである。この作品は、みゆきが倉持との交渉によってそうした抑圧から解放されていく過程を縦糸の一つとしているのだが、しかし倉持の描き方と同様、この過程もまたシニカルに描かれていく。みゆきは倉持による痴漢行為の後、電車の中で女子学生の手を痴漢の手であると勘違いして声を上げる。また、婚約者と電車に乗っているときに倉持に体を触られるのだが、その欲情の高まりを彼にではなく婚約者にぶつけている。欲情を喚起したのがたとえ倉持であったとしても、彼は決してその対象とはならないのである。彼女もまた《痴漢》的な存在であり、婚約者だけでなく、倉持にとってもしばしば不可解な存在となる。
 だが、この互いに互いがシニカルな《痴漢》であるということが、《倉持=痴漢を選ぶ》という異様な事態を可能にしてしまう。倉持と婚約者の間の選択を迫られたみゆきは、なんと倉持が―――かつて自分が彼の前でそうしたように―――失禁している姿を目の当たりにしたのをきっかけに彼を選んでしまうのである。婚約者同様、事の次第に呆気に取られている観客の前で、彼女はさらに驚くべき行動をなす。彼女は倉持の正面に対峙するや、その唇にではなく禿げあがった前頭部に接吻するのである(彼らの背後では、花火まで打ち上げられる!)。これは単純にハッピーエンドといって済ましてはいられない事態である。互いに互いの魅力など信じていない二人は、ただただ互いに相似的でありながら、それゆえにねじれて存在していることを確認し合うのである。シニカルな人物たちの邂逅においてのみ、ユートピア的な一瞬が到来してしまう―――こうした図式は、本作に限らず大工原作品全体に散見されるものであり、他の作品においては人物たちのシニカルな属性がユートピアの強度によって巧妙に隠蔽・昇華されるのであるが、『痴漢白書8』はこの図式そのものが露わにされているという意味で特権的な作品であるといえる。