神代辰巳論1・2(井川耕一郎)


(『ユリイカ』1997年10月号(特集「日本映画 北野武以降」)に「ゴーストムービーについての六つのノート」というタイトルで掲載されたものの再録です)



 学生の頃、ひと夏、ラブホテルでバイトをしていたことがある。シーツをとりかえたり、風呂を洗ったり、ごみを捨てたり、要するにひとの情事の後始末とお膳立てだ。そのとき、コンビを組んで仕事をしていた相棒が、去年の今頃、ベッドの上に落ちていた奇妙なものの話をしてくれたことがある。それは、最初、消しゴムのカスのようにしか見えなかったそうだ。だが、やがてそれが何だか分かると、相棒はチェッと舌打ちをして、ベッドから勢いよくシーツをひきはがしたという。
 「で、一体、そいつは何だったんです?」と尋ねると、相棒は答えた。「皮さ。ほら、日焼けしてポロポロむける……。まったく、海でお楽しみで、ここでお楽しみとは、いい気なもんだぜ」
 私は、その「消しゴムのカス」という相棒の言い方が気に入って、何とかそれを見てみたいと思った。けれども、とうとうお目にかかることはなかった。その夏の間、結局、私は「消しゴムのカス」をめぐって、とりとめない空想にふけってばかりだった。枕カバーでふいたばかりのコップを蛍光灯にかざし、髪の毛がついてないかを確かめながら、私はたびたび思った。もし、消しゴムのカスをつくることだけを目的にセックスをするカップルがいたとしたら、そいつらはどんなやつらなのだろうか……。
 ところで、そのとき、私の頭の中にあったセックスのイメージというのが、果てたあとも、だらだらとからみあっている神代辰巳の映画のようなセックスだったのである。
 神代の映画の魅力は、一言で言って何だろうか。私は前にそれを「だらしないことの気持ちよさ」と考えたことがある。だが、ここでは、幽霊になることの快楽と言っておこう。こう言ったとき、私の頭の中では、「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌がひとりでに流れているのだが、この歌ほど神代的なものはないように思う。今じゃ『赫い髪の女』(79)の音楽を担当した憂歌団が、この歌を歌っているのだ。映画の中で神代が使わなかったのは、実に残念というほかない。



 神代の映画の登場人物は幽霊になる病にかかっている、と私は考えている。それがデビュー作『かぶりつき人生』(68)からかどうかは、今回、確かめられなかった(何しろ十五年前に一度見たきりなのだ)。けれども、二作目の『濡れた唇』(72)からは病気にかかっているとはっきり言える。
 『濡れた唇』は、主人公の青年が恋人に体を愛撫することさえも拒まれて、はらいせに夜の公園で痴漢をするところから始まる。たしか、この出だしで、痴漢をする直前に主人公のナレーションが入るのだが、今、これを脚本で確認してみると、「これは最高の屈辱でした。死に腹を切ればいいのです」となっている。これは映画とは違う。映画では「屈辱を受けました。腹でも切りますか」となっていたはずだ。私にはこの改変は重要に思える。「これは最高の屈辱でした。死に腹を切ればいいのです」は、観客に対する心理の説明にすぎない。だが、「屈辱を受けました。腹でも切りますか」となった場合、様子は少し違ってくる。ここには、恋人に愛撫をこばまれたことを屈辱と受け取らなければならないのに、そう感じ取れない、というニュアンスが含まれているような気がするのだ。だから、彼は「腹でも切りますか」と自分に問いかけてしまうのである。私が先に言った幽霊になる病とは、この離人症のような主人公のあり方を指している。『濡れた唇』のラスト、主人公との逃避行の末に逮捕された絵沢萌子は、刑事に向かって、主人公の名も住所も何も知らないと答える。このとき、絵沢萌子にとって、主人公は幽霊のような存在だったのではないだろうか。
 続く三作目『一条さゆり 濡れた欲情』には、『濡れた唇』の主人公のような離人症的な幽霊は登場しない。だが、とりあえず主演になっている一条さゆりと、本当の主演である伊佐山ひろ子は、どう考えても人間ではない。例えば、伊佐山ひろ子はのっけから中川信夫の『地獄』の三ツ矢歌子のように日傘をくるくる回しながら登場する。しかも、彼女のヒモは棺桶にでも使えそうなバカでかい衣装トランクをひきずっているのである。さらに映画が進むと、伊佐山ひろ子はその外見と同じく内面もどこかおかしいことが分かってくる。一条さゆりの前ではおべっかを使い、裏ではショーを邪魔する彼女の行動は、ポスト一条さゆりの座を狙うストリッパーの行動というよりは、ストーカーのそれに近い。特に精神的な異常さを感じるのは、彼女が一条さゆりの過去を自分の過去のように話すときだ。ヒモに向かって「うちの父ちゃん、ほんまは死刑囚やったん」と語るときや、一条さゆりに向かって同じ孤児院出身だと語るとき、そこに唐突に絵に描いたようなウソくさい死刑執行や雨の孤児院のイメージショットが入る。このイメージショットと伊佐山ひろ子の表情を見ていると、彼女はニセの過去にうっとりとひたっているとしか思えない。要するに、伊佐山ひろ子演じるストリッパーは、一条さゆりと自分の区別をつけるために必要な現実感をどこかで失っているのだ。この点で彼女は離人症的だと言うことができる。
 同じようなことが、一条さゆりにも言える。映画の中で彼女が見せる最大の芸は、ローソクショーでもオナニーでもない。引退公演の最後、彼女は一人の中年の客に自分のあそこを見せながら言う。うち、淋しそうな人見ると、父ちゃんのこと思い出して慰めとうなる性分ですねん……。するとそのとき、警察がオープンの決定的な瞬間をカメラで撮る。だが、彼女は何事もなかったかのように、「うちの父は惚れた女を自分で殺したんですねん。そいで死刑になって(ここで絞首刑のイメージショットが入る)……何か知りまへんけど、それで濡れる言うことがありますやろか? そやけど、そんなもん、おかしおますな」と語り、ふっと微笑むのである。このときの一条さゆりには怖いものを感じる。客へのサービスで話した近親相姦の欲望を彼女が本気で信じているかのように見えるのだ。
 伊佐山ひろ子も一条さゆりも、自分のついたウソに本気で没入する点で、幽霊になる病にかかっていると言える。だが、同じ病でも『濡れた唇』の主人公と症状が違うのは、性別の違いによるものだろうか。どうやら、女の幽霊は別の何者かになろうとするが、男の幽霊は何者でもなくなろうとするらしい。
 『恋人たちは濡れた』(73)は、まさに男がかかる幽霊になる病の典型的な例である。この映画で大江徹演じる男は、人からお前は中川克ではないのかと尋ねられるたび、違うと答えている。だが、彼が中川克であるのは間違いない。第一、脚本では彼の役名は「克」とはっきり記されている。それなら、なぜ彼は故郷に戻りながら、中川克であることを認めないのだろうか。その理由はたった一つ、母親とだけは会うまいとしているからだろう。私の見たところ、克が五年前に故郷を捨てたのは、母親と交わるという罪を犯したためだと思われる。彼が母親と寝るに至った経緯は、たぶん絵沢萌子と寝るに至った経緯とほぼ同じはずだ。
 もちろん、こうした過去は映画の中でははっきりとは描かれていない。近親相姦があったと感じさせる描写はたった一つ、克の母親が画面に登場したとき、大江徹のことを息子であるとも息子でないとも言わずに、黙って去っていく部分だけだ。脚本を読むと、このシーンのあと、中川梨絵演じる女は大江徹のこぐ自転車の荷台に乗り、次のように言っている。「私の感想なんだけどさ。あんた達ほんとの親子だったとふんでるんだけどね」 「あんた、とにかく、故郷に足がむいたんだよね。故郷へ帰りたくなって帰ってきたんだよ。それなのに、どう言うのかね、あの態度は。わからんね。何かよっぽどのことがあったかもしれないけど」「(克にうるさいと言われて)うん、もうやめるよ。あんた、故郷を捨てるために帰ってきた−−か」
 この中川梨絵のセリフは映画ではすべてカットされている。その理由は、たぶん「故郷」という言葉がこれでは曖昧だからだ。克は母との関係を断つために幽霊となって、五年間放浪した。そして、ついに人を刺す仕事を引き受け、本物の死が我が身を罰するように仕組んだ。そんな死を待ち望む男が最期に戻りたいと思う場所が、交わった母の住む故郷などであるだろうか。彼が戻りたかったのは、母と交わる以前の、少年時代の故郷のはずだ。それは、単に荒れた海とくもった空だけの故郷、人間などをきっぱり拒絶したただの風景としての故郷だったはずである。
 映画の中で克はたびたび自転車に乗るが、その姿はどう見ても幽霊である。一応、フィルム運びや映画の宣伝のためということになっているが、本当の目的は、荒れた海やくもった空と戯れるためなのだ。おそらく、中川梨絵演じる女は、そんな克の乗る自転車の官能性に誰よりも強くひかれていたに違いない。「背中に耳をぴっとつけて抱きしめた/境界線みたいな身体がじゃまだね どっかいっちゃいそうなのさ/黙ってると ちぎれそうだから こんな気持ち/半径3メートル以内の世界でもっと もっとひっついてたいのさ」これは中川梨絵の台詞ではなく、自転車二人乗りについて歌った川本真琴の「1/2」の歌詞だ。私に分からないのは、彼女が「唇と唇 瞳と瞳と 手と手/神様は何も禁止なんかしてない」と歌うことである。たかが少年少女の恋で、なぜ「神様」や「禁止」をもちだすのだろう。そこで私は思いをめぐらし、「あたしたちってどうして生まれたの 半分だよね」を字義どおり受け取ってみたらどうかと考える。つまり、この歌の主人公は、双子の兄と妹が交わるようにもっと深く愛しあいたいのだ、と。そう仮定して、川本真琴の他の歌、例えば「愛の才能」を聞いてみると、双子の近親相姦を夢見る妄執が聞き取れるではないか。以前に「成長しないって約束」をした妹は兄にこう呼びかけている。「あなたはあたしを あたしはあなたを 体で悟りたい/友達じゃなくて 恋人じゃなくて 抱きしめたいの」。ラスト近く、中川梨絵が砂浜で馬飛びをしながら服を脱ぐとき、彼女もまたこれと同じ思いにとらえられていたと私は考えている。彼女はまるで双子の妹のように克を理解し、愛しはじめていたに違いないのだ。これに対して、克はどう思っていたのだろうか。梨絵が別の男に砂浜で犯されているのをじっと見つめているとき、克もまた自分を兄のように感じて、双子の近親相姦を夢見ていたのではなかったろうか。いずれにせよ、一つだけ確かなことは、この後、神代はすぐれた幽霊譚の作家である田中陽造と組んで、『やくざ観音 情女仁義』(73)、『地獄』(79)の二本で兄妹相姦を描こうと試みたということである。


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