神代辰巳論3(井川耕一郎)


 神代の映画を見ると、人はなぜだか実生活で同じことをしたくなってしまう。例えば、「映画芸術」95年夏号に斉藤久志は『青春の蹉跌』(74)を見て、「何か問題が起きた時、『えんやーとっと』と、その場をやり過ごすということは、この映画から学んだ」と書いている。
 ところで、その『青春の蹉跌』で萩原健一が「エンヤートット」と呟くように歌うくだりは、全部で五回あったように思う。
(1)雪山で桃井かおりとスキーをし、凍死したカップルを発見するシーン
(2)叔父の家に行く途中と、叔父の長々と続く話を聞いているシーン
(3)友人と夜道を歩いていると、ふいに数人の活動家に角材で殴られ、たった一人逃げだすが、後ろめたさを感じて戻ってくるシーン
(4)桃井かおりに中絶させるため、産婦人科につきそっていくシーン
(5)桃井かおりを雪山で殺したあと、東京に戻ってきて、数日後、友人の家を訪れるまでの一連のシーン
 この五つのうち、(2)(3)(4)の三つのシーンで聞こえる「エンヤートット」は、そのときのショーケンの内面の声であると見なしてかまわないだろう。だが、あとの二つは果たして内面の声と言えるだろうか。例えば、(1)の場合、ショーケン桃井かおりに雪山に誘われることに、うんざりするような何かを感じる要因は何もないような気がする。ここのシーンでの「エンヤートット」はどう考えても、思いがけなく死体を発見することの予告の意味しかもっていないのだ。一方、(5)の場合、「エンヤートット」とショーケンが歌う心理的な必然性には何の問題もない。だが、ここの一連のカットは、a列車が山を背にカメラの方に向かって走る客観カット、bショーケンが東京について列車から降りるカット、cショーケンが足を骨折した女性を背負って駅の中を歩くカット、dショーケンが鉄の柵に触りながら歩くカット、というふうに続く。私にはどうにもこのカットのつながりが奇妙なものに見える。その理由は大まかに言って二つある。

A 普通、ショーケンの内面の声を聞かせるつもりなら、aでは彼の見た目で列車の窓外の流れる風景を見せるべきではないだろうか。私には、列車が東京に戻るのを示すこの客観カットが誰の見た風景と理解すべきなのかがよく分からない。

B aからcまでは、夜中に東京に戻ってくることを示すカットなので、ごく自然に時間の連続性を感じ取ることができる。だが、cからdは、いきなり時間がとんでいる印象を受ける。なのに、内面の声だけが続くのは奇妙である。

 一体、(1)や(5)のような内面の声から微妙に外れる性格の「エンヤートット」は、どう理解したらいいのだろうか。これを説明する手は一つしかないような気がする。要するに、ドラマがすべて終わったあと、ショーケンがそれを回想しているとするなら、(1)や(5)で 「エンヤートット」と歌うのはまったく問題がないのだ。もっとはっきり言うと、ラストで首の骨を折って死んだショーケンが、幽霊となって過去を思い出し、「エンヤートット」と歌っているシーンが、(1)や(5)であるということになる。
 このショーケンの歌声と似た性格のものは、神代の他の映画でも聞くことができる。例えば、『赤線玉の井 ぬけられます』(74)の芹明香演じる娼婦を見てみよう。映画は彼女が結婚してカタギの女になるところから始まるのだが、なぜだか見る者はすぐにその幸せが長くは続かないと分かってしまう。それは、金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう……と、画面外から芹明香の気だるい鼻歌が流れてくるためだ。たぶん、この鼻歌を歌っている芹明香ショーケンと同じく死んでいるに違いない。私はこういった歌声のあり方を「死者のアフレコ」と呼んで、神代の映画の大きな特徴の一つとしてとらえてみたい。と同時にもう一歩だけふみこんで、そもそも神代の映画は幽霊の語りで成立している、と考えてみたいのだ。要するに、神代の映画では登場人物だけでなく、映画そのものが幽霊になる病にかかっている、と。
 『四畳半襖の裏張り』(73)、『濡れた欲情 特出し21人』(74)、『赤線玉の井 ぬけられます』といった作品は、まさに映画そのものが幽霊になる病にかかっている代表的な例だろう。これらの作品では、場所も時間も登場人物も異なるエピソードが、でたらめに次々と語られ、ふいに終わってしまうようなところがある。それははじめのうちは見ていて、そのいいかげんさが楽しいのだが、やがて一つの疑問をつきつけてくる。一体、この物語の語り手は何者なのか、と。例えば、『濡れた欲情 特出し21人』の場合、語り手は、時々、字幕を入れるのだが、それは「それも今は昔の話」「今は昔」「今は今」と次第にナンセンスなものになっていく。これは、要するに、語り手が時間のない死の世界にいることを示しているようなものだ。
 『四畳半襖の裏張り』や『赤線玉の井 ぬけられます』の場合だと、ラストカットで語り手の幽霊性が最も問題となる。『四畳半襖の裏張り』では、絵沢萌子が細長いガラスの筒のようなものでハエを捕るところで、ふいに画面が止まって映画が終わる。私はこのカットを芹明香の回想として長いこと記憶していた。そして、回想のさなかに唐突に映画が終わるとはすごい、と驚き呆れていたのだが、今回、ビデオで見直して間違いに気づいた。これはそれまでの画のつながりを考えれば、芹明香宮下順子のもとに絵沢萌子の家を出たいと相談しに行ったのと同時刻のカットであると受け取るよりほかない。しかし、だとしたら、問題になるのはカメラの位置の低さである。まるで芹明香が雑巾がけでもしているときに、ふと顔をあげて見てしまったかのように絵沢萌子を見ているこの視線は、何者のものなのか。これはもう幽霊のものとしか言いようのない視線である。
 『赤線玉の井 ぬけられます』の場合には、「繁子の道具は海のように広かったという」という字幕がラスト直前に画面に出る。これは要するに「あそこがゆるゆる」という意味だろう。しかし、映画はこの字幕を字義どおりに受け取って、唐突に誰もいない夜明けの海を画面いっぱいに映して終わってしまうのである。一体、誰が、いつ、どこで、見たのかさっぱり分からないこの海のカットほど、語り手の幽霊性を強く感じさせるものはない。だが、それにしても分からないのは、この海のカットのどこに私は感動してしまったのかということだ。私は海の広さに感動したのだろうか。それとも、朝の光にだろうか。音もなく波が打ち寄せることにだろうか。
 たぶん、私はベケットの『伴侶』の中に登場する子どものようにナンセンスなことを言っているのだろう。『伴侶』の中の子どもは、買物からの帰り道、ふと紺碧の空を見て、 「あれは見かけよりも実際ははるかに遠くにあるのではないか」と母に尋ねる。だが、答がないので、子どもは「それは実際よりもずっと近くに見えているのではないか」と尋ねなおし、またも母に答を拒否されてしまう。このとき、おそらく子どもは母にこう告げるべきだったのだ。母さん、ぼくは幽霊の目をもってしまった、と。私もまた同じことをラストカットの海について言うべきだろう。この海を見ているのは私だ。私は今、幽霊の目をもってしまった、と。神代の映画の怖さとは、まさにこれだ。神代には、見る者にも幽霊になる病を感染させる力がある。


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