ああ、ふりまわされたい―常本琢招『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』について―(1)(井川耕一郎)

 『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』をひさしぶりに見る。
 最初に見たのは作品が完成したばかりの頃で、たしか飲んでいるときに常本琢招からビデオを手渡されたのだった。翌日、家で見て、傑作だ! これは『黒い下着の女教師』と並ぶ常本の代表作となるだろう、と思った。
 そして、2001年の『映画芸術』ベストテン(『映画芸術』2002年冬号)で、私は『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』を1位に推して、こうコメントを書いた。

多重人格の治療方法がメチャクチャだとか言いたいことは山ほどある。しかし、物語の後半、主人公二人の逃避行に引きこまれてしまい、いい年して不覚にも泣いてしまった。これは幽霊と少年の恋を描いた良質のファンタジーだ。常本琢招の代表作となるのではないか。


 ちなみに、この年の『映画芸術』ベストテンでは、高橋洋も『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』を3位に推して、次のようにコメントを書いている。

誰にも望まれていないのに過酷な撮影スケジュールの中で的確なカット割りが敢行され、メロドラマが存在している。この二重人格ネタは精神医学的にはムチャクチャかも知れないが意外にかつてなかったのではないか。


 こうやって私と高橋のコメントを並べてみると、まるでシナリオはダメだが、演出が素晴らしかった、と言っているように見えてしまうかもしれない。しかし、それはちがう(そもそも、演出の基礎にはシナリオの読解があるのだから、ダメなシナリオからすぐれた演出が導きだされることは決してない)。
 たしかに『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』には、二重人格の治療に関するかなり奇抜なアイデアが盛りこまれている。だが、作品の中の世界では、その治療方法がきちんとリアリティをもって成立しているのである。要するに、藤田一朗のシナリオは緻密な計算をしたうえで、アクロバットを演じていると言えるだろう。
 それにしても、高橋も書いているように「過酷な撮影スケジュール」の中でよくもこれだけのものが撮れたものだと思う。『黒い下着の女教師』から四、五年しかたっていないのに、エッチVシネマの予算は半減し、撮影日数もどんどん短くなっていく一方であった。なのに、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』は製作条件の悪化をまったく感じさせない出来になっている。
 これは一見すると、奇跡のように見えるが、もちろん、実際にはそうではない。撮影の志賀葉一、照明の赤津淳一、そして、今泉浩一、奈良坂篤、森羅万象といった役者とくりかえし組んで撮影してきたことが、作品の質を支える力となっているのだ。予算・撮影日数などの条件の悪化をはねかえせるくらい、ひとには恵まれたということだろうか。そういう意味で、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』は豊かさが感じられる作品になっていると思う。


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 ひさしぶりに『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』を見て気になったことがある。
 最初のベッドシーンが15分目にあることだ。作品が始まってすぐの段階で見せ場をつくって観客の気持ちをつかむというのが、娯楽映画の鉄則だとしたら、15分目に最初の見せ場があるというのはどうなのだろう。
 たとえば、エクセスフィルムには、映画が始まって10分以内に一回目のベッドシーンがなくてはいけないという規則があったように記憶している。別にそんなに焦って早めに見せ場をつくる必要もないように思うのだが、それでも15分目というのは気になる。一回目の見せ場が始まる時間としては許せるぎりぎりのところではないだろうか。
 しかし、常本琢招と藤田一郎がその危うさに気づいてなかったとは考えられない。彼らが組んでエッチVシネマをつくるのは、これで四本目なのだ。むしろ、確信犯的にぎりぎりの時間を狙ったのではないか、という気さえする。
 そういえば、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』は、麻田真夕演じるヒロインが堤防の高い塀の上を歩くところから始まるのであった。両手を広げてゆっくり進むその姿は、まるで綱渡りでもしているかのように見えるのだが、ひょっとして、常本たちはヒロインの危うい姿を通して、エッチVシネマとして成立するかしないかのぎりぎりのところを狙う、と宣言したかったのではないか(実際、この作品には、一般映画として公開されてもおかしくないような雰囲気が全体にただよっている)。
 この点に関連して気になるのは、麻田真夕が塀の上を歩きながら、小声で何ごとかつぶやいていることだ。サーカス小屋には高い梁……そこに一つのブランコだ……ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん……彼女は中原中也の「サーカス」を暗誦しているのである。
 中原中也と言われて思い出すのは、「ホラホラ、これが僕の骨だ」という詩句であり、「さよなら、さよなら!/こんなに良いお天気の日に/お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い」という詩句である。中原中也という表現者は、へらへらおどけながらお別れを告げることに快楽を見出すひとなのだろう。「サーカス」という詩について言うなら、ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん、という奇妙な擬音の内にそのことが感じ取れる。
 おそらく、常本たちが『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』の中で中原中也の詩を引用したのは、エッチVシネマにお別れを告げてみたかったからだ。もっとも、どこまで本気でさよならと言いたかったのかは分からない。このブログに載っている自作解説を読むと、この時期、常本は製作会社が求めるものと自分の表現衝動との間にあるずれに悩んでいたようである。しかし、だからと言って、表現の場をあっさり捨てるようなことを、しぶとく生き延びてしまいそうな常本がするとも思えない。たぶん、常本はお別れごっこをすることで、会社とのずれがもたらす緊張を一時でもいいから解消したかったのではないか。
 ところが、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』のあと、常本たちは本当にエッチVシネマから遠ざかってしまう。お別れごっこのつもりが、現実になってしまったのだ。
 今回、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』を見直して一番面白いと感じたのはこの点だ。作品の冒頭にヒロインの内面の声として「この時の私は、いつ死んでもいいと思って生きていた」という字幕が出るが、たとえお遊びでもこんなことを書いてはいけなかったのだ。結果として、その言葉は作者たちの将来を決定してしまった。常本には悪いと思うけれど、思わず笑ってしまいたくなるような冗談だ。しかし、このことは、逆に言うと、作者たちまでもふりまわすような強烈な魔力がこの作品に備わっていることの証ではないだろうか(そんな作品をつくってしまった常本が実にうらやましい)。
 そして、「ふりまわす」という語ほど、常本琢招の作品の本質にかかわるものはないと思うのだが……。