常本琢招の返信1(常本琢招)

どうも、常本です。
井川さん、理路整然とした手紙、ありがとうございます。これらの問いに理路整然と答えられるかどうかは分かりませんが、とにかく返事をひねり出してみましょう。
(この文章を読まれる方は、先に、井川さんの手紙*1をお読みください)


(1)なぜクランクイン前にリハーサルをやるようになったか?

確かに、僕がついた先輩監督、広木隆一さん、石川均さん、高原秀和さん、富岡忠文さん、そして鎮西尚一さんは、クランクイン前のリハはされませんでした。
しかし、これらの監督の方々も、まったく芝居をつけない、というわけではないのですね。毎日の撮影において、それぞれのシーンを撮影する際に、芝居をつけていく。やり方は人それぞれで、芝居のつけ方にも濃淡はありましたが、とにかく、演技についての注文は、どなたもされていました。
しかしながら、僕が働いていたのは、それほど演技の経験がない若い男女を主演に迎えることが多いピンク映画の世界。時間がない現場で、先輩監督たちがよりどころにしていたのは、“存在感“というものだったと思います。
“存在感”とはあいまいな言葉ですが、その人の演技力のうまさというより、持っている個性をうまく引き出して、その人が演じるキャラクターにプラスしていく、という作業を、僕がついた監督たちはよくやられていたと思います(この作業に、最も長けていたのは、広木監督でした)。


そのやり方でも傑作が出来るということは承知していましたが、僕はそのやり方はとりたくなかった。役者Aの持っている“たかが”個性を、キャラクターにプラスするだけの作業は、演出として高いハードルではないと、偉そうに思っていたのです。
それより、役者Aを追い詰めていくことで、普段持っている個性からもう一ランクアップして、Aにはここまで出来るのかというより高次元の能力を引きだしたい、という大それた野望を持っていたのだと思います。


そして、そんな僕の考えのよりどころになっていたのは、井川さんも期せずして引用していた増村保造の言葉でした。といっても、現在ワイズ出版から出ている『映画監督 増村保造の世界』に所収されているものではなくて、『監督の椅子』という本で白井佳夫と対談している中での発言です。
部屋をひっくり返しても現物が出てこないので、正確な引用が出来ないのですが、こんなことを言っていたのです。
「テストをして、追い詰めていけばいくほど、巫女的な体質を持った女優は“発狂状態に”なっていき、腹の中に埋め込んだダイナモ(=発電機)が点火されて、“女”そのものの、面白い芝居をしてくれる。反対に、いくらテストを重ねても、まったく芝居が変わらない女優もいて、面白くない」
前者を若尾文子緑魔子、後者を浅丘ルリ子山本富士子と、実名を挙げていたのも印象に残っていますが、その、女優を発狂状態にまで追い詰めていく、という箇所が、字面だけで読むと異様にイメージが膨らんできて、自分にもそんなことが出来るだろうか、してみたい・・・という憧れがあったのです。


しかし、そんなことを自分が実際に行える能力があるかは不安があったし、撮影期間も60分で5日間(デビュー作)。一日12分もOKカットを取らなくてはいけない現場でそんなことが本当に出来るのか、となったとき、事前リハーサルを行うという発想に、自然になっていったのでしょう。


そして、リハを行う際、お手本がなかった僕が参考にしたのは、神代辰巳相米慎二でした。神代の場合は、井川さんも書かれている、宇田川幸洋のレポート「神代シネマ フィールドノオト」です。『少女娼婦 けものみち』のリハーサルの模様が詳細に書かれているのですが、神代が心理を言わずまるで振付けるように動作だけを指示することで、逆に役の人物の心理が一本調子ではなく浮き彫りになっていく過程がよく分かって、面白く参考になりましたし、それと反対の演技のつけ方を目の当たりにしたのが相米慎二です。


シネマアートントークショーでも言いましたが、大学一年のとき、『翔んだカップル』に衝撃を受けた僕は相米に手紙を書いて、『セーラー服と機関銃』の撮影を5日間ほど見学させてもらったことがあったのです。
さまざまに強烈な体験があったそのなかで、最も印象深く、かつ驚いたのは、日活撮影所内のスナックのセットで、「カスバの女」を歌う風祭ゆきと薬師丸ひろ子が会話をするシーンのテストでした。
何が驚いたかというと、相米慎二は動きを一切つけないんですよ。テストを繰り返すたびに、二人のところに近寄っていって、ただ、延々と話をするんです。近くにいたわけではないのでよくは聞き取れなかったのですが、役の人物について、ただ延々と話をしていました。それを繰り返すうちに、最初はぎこちなかった風祭ゆきの顔が変わっていき、芝居も変わっていくんです。まるでマジック!!でしたね。
ただ、耳元で話すだけで芝居が変わっていくなんて・・・


というわけで、動きしか言わない神代、動きをまったくつけない相米。二人の演技のつけ方の中でさまよいながら、自分なりにリハを行っていくうちに、自分のやり方を見つけていったように思えます。


続けての
(2) リハーサルで目指しているもの=どういう判断基準で役者の芝居にOKを出しているのか、ですが、これは難しいですね。そんなこと、今まで考えたことがなかったので・・・


改めて考えますので、今しばらく、時間をください。