沖島勲ノート(3)−1(井川耕一郎)

 沖島勲の仕事全体を見渡したとき、一九九三年に公開された『紅蓮華』(監督・渡辺護)のシナリオはひどく孤立しているように見える。沖島の他の作品には童話的なもの――笑いと残酷さの独特な融合があるが、生真面目にリアリズムを押し通した『紅蓮華』にはそれが感じられない。八百年後の現在に義経たちの幽霊が漂着する『YYK論争 永遠の“誤解”』や、遠い未来の子孫のもとにご先祖様の男が漂着する『一万年、後‥‥。』といった最近の荒唐無稽な作品と並べてみると、本当に『紅蓮華』のシナリオは同一人物が書いたものなのだろうか、という疑問すらわいてくる。
 沖島勲が『紅蓮華』のシナリオに参加するまでの経緯にも少しややこしいところがある。ある女性社長の自伝の映画化を依頼された監督の渡辺護は、沖島勲にシナリオを頼もうとした。しかし、原作の自伝を読んだ沖島は自分はライターとして適任ではないと感じて断ってしまう。そこで渡辺は佐伯俊道にシナリオの執筆を依頼するのだが、第一稿が完成したところでふたたび沖島に会い、シナリオの直しを依頼するのである。
 一体、なぜ沖島は一度は断ったシナリオを引き受けようと思ったのか。それは、佐伯俊道が書いた第一稿の中に、原作をどう料理すればいいのかということに関する重要なヒントがあったからだろう。
 佐伯が書いた『紅蓮華』の第一稿は、主人公・さくらの誕生に始まり、親が決めた相手との結婚、軍人である夫の戦死、未亡人となってからの出産、夫の実家でのつらい労働の日々……といったふうに波瀾に富んだ女の一生を二時間のドラマとしてうまくまとめている。しかし、沖島が注目したのはそうしたうまさではなかった。原作にはほんのわずかな記述しかなかったさくらの再婚相手・健造に関する挿話が大きくふくらんでいたこと――このことが沖島にとっては大きな刺激となったはずだ。
 佐伯が書いた第一稿では、健造に関するドラマはおよそ次のように展開する。
 戦後、さくらは自分の意思で結婚相手を選んで再婚しようとする。さくらにとって重要なのは、相手を愛しているかどうかよりも、自分の意思で相手を決定したかどうかだった。今のひとの目から見れば、どこかゆがんだ考えに見えるかもしれないが、さくらは今まで自分を苦しめてきた古い家のあり方からとにかく逃れたかったのだろう。そんなさくらの結婚の申し出を受け入れたのが、いとこの健造だった。ところが、彼には洋子という恋人がいた。洋子にしてみれば、健造の結婚は許せるものではない。彼女はさくら・健造夫婦の家に強引に上がりこみ、かくして夫・妻・愛人の奇妙な同居生活が始まってしまう。
 自分が女性から必要とされていることに喜びを感じる傾向は、男性一般に見られるものかもしれない。健造もそうだった。彼はさくらの要求を受け入れて結婚し、洋子の要求を受け入れて同居を許してしまう。当然、さくらは洋子を家から追い出すように求める。しかし、健造はこう言って責任逃れをするのである。「結婚の要求以外、きみは条件をつけなかったじゃないか。きみは家を出たいから僕のところに来たのと違うかな。僕が好きで来たわけじゃないんだろう」。何ともずるい言い訳だが、やがて健造は三角関係の中で精神的に疲れていき、最終的には自殺することになる。
 沖島が考えたシナリオの直しの方針はおおまかに言って次の二つに要約できるだろう。
(1)第一稿の前半部分、終戦までの部分をばっさりカットして、さくら(秋吉久美子)・健造(役所広司)・洋子(武田久美子)の三角関係をドラマの中心にすること。
(2)健造が精神的に追いつめられて自殺するしかなくなっていく過程を細かく描きこむこと。
 (2)の方針から見て、沖島が書いた決定稿の中で重要と思われる場面は三つある。
 一つ目は、洋子を健造の弟で知的障害のある勇造と結婚させてはどうか、というさくらの提案を健造が受け入れる場面。佐伯俊道が書いた第一稿では、まずさくらの提案があって、それを健造がしぶしぶ認めるという流れになっているが、沖島の決定稿はちがうものになっている。さくらが、洋子との同居生活で神経がズタズタになってしまった、と訴えると、健造はこう言い返す。

健造「俺は、結婚なんて言うのは、世間に対する、体裁の様な物だと思っている。君も、その体裁が欲しかったから、俺と結婚した様なものじゃないか……今は、個人主義の時代なんだ。その中で、それぞれが、勝手に、好きな生き方をすれば、いいじゃないか」


 さくらにしてみれば、「あなたの言う事なんか、屁理屈よ!」である。しかし、さくらはその屁理屈を逆手にとって提案をする。結婚が単なる体裁にすぎないのなら、「勇造さんと洋子さんと、結婚させたらどうかしら?」。健造は自分が言いだした理屈に追いつめられて、さくらの要求を受け入れるしかなくなってしまう。このあたりの議論の進め方は見事というしかない。
 そして、二つ目は、健造が結婚した洋子から関係を拒まれる場面である。この場面は沖島が新たに書いたもので、健造がいつものように弟夫婦の家にやって来て洋子の体を求めようとすると、洋子にこう言われるのである。「私達、一応、夫婦ですから……何とか、自分達で、やって行こうと思います」「勇造さんが、一生懸命、働いてくれています。……それでも、足りなかったら、私も、何かして働きます。(初めて健造の顔を見て)とにかく、この子が出来たんですから……今迄と違って、何とか、まともに……」「帰って下さい! もう、二度と、来ないで下さい!!」。
 洋子の態度の変更は、彼女が一児の母になったことから来るものだった――と、沖島勲が書いた決定稿をここまで読んできて、ふと気づくことがある。沖島は『紅蓮華』の健造を「母」にとり憑かれた人間としてとらえているのではないか。
 このことをもう少し具体的に言うと、こうなる。健造はさくらの結婚の申し込みを受け入れ、洋子と勇造を結婚させようという彼女の提案も受け入れた。一体、なぜ健造はさくらの無茶な要求をいつも受け入れてしまうのか。それは終戦までのさくらがつらい目にあい続けてきた「母」だったからではないだろうか。また、健造が洋子からの関係の拒絶を最終的に容認してしまったのも、彼女が「母」になったからではないだろうか。
 実際、三つ目の重要な直しは、健造が「母」にとり憑かれているのではないかという仮説を裏付けるものだ。佐伯の第一稿とはちがって、沖島の決定稿では健造の母は病死してしまう。そして、母の葬式のあとに次のようなシーンがくるのである。

  二人、自分たちの車の方へ、歩いて行きながら、
健造「何もかもが終った」
さくら「……」
健造「俺の中で、全てが、終った」
さくら「……」
健造「お袋に死なれてみて、俺が、とんでもない、見果てぬ夢を、心に抱いていた事が分った。……(自嘲して)フッフ……それは、俺が、何代も続いた旧家としての中田家を、復興しよう等と、考えていた事だ……」
さくら「……」
健造「そうして、少年時代の、黄金時代を、取り戻そう等と、考えていたことだ……」
さくら「……」
健造「本気で、そんな事を考えていたのか……タダ、夢の中に、無意識の中に、持っていたものか知らんが……そんな想いが、俺の中に、くすぶり続けていた事は、確かなようだ……」
さくら「……」
健造「(笑って)だけど、安サラリーマンの俺に、そんな大それた事が、出来るハズも無かった……」
さくら「……」
健造「それに、そんな子供っぽい夢を持っている様な奴に……そんな事が、現実に出来るハズが無い……」
さくら「……」
健造「そうして、お袋の死で、全てが終った」
さくら「どうして?」
健造「お袋が死んだら、もう、そんな夢を持つ、理由も根拠も、無くなったからだ……全ては、お袋が生きててこその、夢だったのだから……」
さくら「……」
健造「そうして、俺自身も、全て、終った」
さくら「これから、あなた自身の人生が、始まるんじゃないですか?」
健造「イイヤ、俺自身には、人生なんて、ない」
さくら「……」
健造「……夢の、残りかすが、あるだけだ……」
  二人、車にのりこむ。
  発射する車。


 このシーンの健造のあり方は、沖島勲の他の作品に出てくる息子たちのあり方と響き合うところが大いにある。母さんが幸せになれなかったのは自分のせいなのだ……。健造はそう考えて自分を責める。そして、このあと、精神を病み、数回の自殺未遂のはてに、自分と車にガソリンをかけ、火を放って爆死してしまうのである。
 だが、それにしても気になるのは、健造がさくらに語った自己分析の言葉だ。ここまで明解に自分の無意識を説明できるのなら、「子供っぽい夢」から目がさめて自由になってもよさそうなものだ。なのに、どうして健造は自殺してしまったのか。さくらは健造に「これから、あなた自身の人生が、始まるんじゃないですか?」と言っているが、これは助言としてはきわめて真っ当なもののように思える。だが、なぜ健造はこの助言にうなずくことができなかったのだろうか。
 『性の放浪』の印刷台本の余白に書かれていた台詞を借りてきて言うなら、健造の母は「おらへんことで、消えたというかたちで、今は、あんたの前に存在しとる」ということになるのだろう。健造の意識は中田家の復興を「子供っぽい夢」だと笑うことはできるが、その夢を完全に排除することができない。健造の母の死は「そんな夢を持つ、理由も根拠も無く」してしまうものだったが、それでも「夢の、残りかすが、あるだけだ……」という状態は残ってしまう。そして、「夢の、残りかす」は健造の母の幽霊をこの世に呼び寄せ、「子供っぽい夢」をなぜ実現できなかったのかと健造に問い続けてしまうのである。
 ここまでシナリオを読んできて思うことは、『紅蓮華』は実はあと一歩でリアリズムの外に出てしまう地点まで来ていたということだ。幽霊が登場する『YYK論争 永遠の“誤解”』や『一万年、後‥‥。』との距離は見た目ほどには離れていないのかもしれない。だとしたら、『YYK論争 永遠の“誤解”』の次のような台詞のやりとりも、『紅蓮華』をふまえて読み直すべきだろう。

頼朝「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」
常磐「あの世って、何?」
頼朝「……この世じゃないもの……この世から、追い出されたもの……」
義経「……神のようなもの……天使のようなもの……」
頼朝「幼いもの……子供っぽいもの、無邪気なもの、幼稚なもの……」
義経「(微かに笑って)童話のようなもの……」


 「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」とは、本当は人間はそういうふうにしか生きられないという意味ではないだろうか。