『ジャンルと模倣された「痛み」 ニューハーフ物語 わたしが女にもどるまで』(三島裕二)

 あなたは、この映画を見て何を感じただろうか?
 この映画の画面上で繰りひろげられる物語を要約するならば、ニューハーフと呼ばれている人たちが働くダンスパブで働く人物たちを多少誇張気味に描きつつ、そこにやって来たユカの、不幸な生い立ちにも関わらず、それに対して後ろ向きになることなくポジティブに生きてこうとするキャラクターによって、周囲の人物(レイコ)が懐柔する、といったカンジになるだろうか。
 業界について詳しいわけでないし、例えばプロデューサーなどから具体的な要請があるのかどうか、僕は知らないのだが、1997年に作られたこのビデオ映画(H系?)には、おそらくその商品としての性格から、女性の裸を見せつつ90分弱の時間を観客に退屈させることなく画面を見せ続けさせなければならない、という要請が働いているのであり、この映画から「ニューハーフ」という特殊な風俗(条件)を還元して見るならば、「具体的に名前は出てこないけど、似た映画をこれまでに見たことがある」といった印象を、たぶん持ったのではないだろうか。
 僕が何を言いたいのかというと、この映画はあくまでもジャンル映画である、ということをまず言っておきたいのだ。そしてジャンル映画として、僕はこの映画をごく普通に楽しんだ。
 例えば、店の金を持ち逃げしたダンスパブの同僚を巡って行われた賭けが決着する場面。同僚は店に戻って来ず、金だけが送り届けられたという結果に対して、「負けは負けよ」とレイコに言わせるのは、自己懲罰的な彼女らしい言動だと思うし、髪を切ることに躊躇するユカに対して言われる「髪は女の命とでも言うつもり?私たち元は男なのよ。こんなもの命じゃないわ」という台詞は二人の対立が非常に鮮明になるとてもドラマチックな台詞だ。
 また、髪に関連すると、自殺未遂の後、記憶喪失になったレイコが自分を本当の女だと思いこんでいることを同僚たちが知るシーンに挿入される自分の髪を弄る病室のレイコのショット。ここでの髪を弄るという行為は、それ自体女性らしさの符牒であるのだが、かつ同時に、前出のシーンでの自分の髪をグッと鷲掴みにするレイコの手つきと対比になっているのであり、アクションとその対比によってレイコの変化を表しているのである。
 またこれは蛇足かもしれないが、僕はこの映画の監督である山岡隆資の演出にもグッときた。ささやかすぎて、ほとんど意識されることはないのだろうが、この映画をジャンル映画たらしめるために物語を過不足なく伝えることに彼の演出は向けられている。
 例えば、楽屋裏で一人裸になり鏡をジッと見つめているレイコのもとにユカがやって来るというショットで、扉を開けて室内に入ってくるユカをパンしながら追うと画面左からフレームインしてくるレイコがすでにガウンを身に纏っているという人物の動かしとそれに付随するキャメラワークは、レイコが服を着るという無駄なアクションを排除しているのであり、それはこのシーンの始まりのカット、俯瞰で捉えられた薄暗い楽屋の室内に一人佇んでいるレイコのガウンをススッと地面に落とすショットの、控えめだがしかし、それは撮られなければならないという演出家としての意志とともに、何かを撮るという選択はつねに何を撮らないかという選択なしにはありえないということに彼が自覚的であったことを示している。こういったこと、なかなかできることではないと僕は思っている。


 さて、このようにシナリオや演出の上での技術に言及できるのは、この映画がジャンル映画なのだということを逆に証明している。なぜなら、そこにテクニック(の優劣)を見ることは、すでにある規範としてのジャンル性を前提しているからだ。しかし、井川耕一郎はジャンル映画作家ではない。少なくとも美学校で作られた『西みがき』(2006年作、監督脚本)『寝耳に水』(2000年作、監督脚本)『赤猫』(2004年、脚本のみ)をすでに見ている人ならば、誰もが彼をジャンル映画作家として見ないことを、納得してくれるだろう。
 ではこの『ニューハーフ物語』をジャンル映画として見ないならば、そこにどのようなものを見出すことができるのだろうか?言い換えればそこに固有の何かを見出すことは可能なのだろうか?


 ヒントとして今回上映される『伊藤大輔』についてちょっと考えてみたい。井川耕一郎自身が自らの声で伊藤大輔について論じている『伊藤大輔』は、同時に彼自身が自らについて実直に語っている作品でもある。その意味でこの映画は井川耕一郎入門編として今回の上映会にふさわしい映画だと思うのだが、そのなかで、井川耕一郎は、伊藤大輔作品に特徴的な人物として、『鞍馬天狗』でのお力や『王将』の三吉たちを画面に登場させて、二人が書かれた文字を「読む」のではなく、それらを「見る」存在であることを指摘している。
 『伊藤大輔』で語られる文字を「見る」こととは、「読む」ことの「破局」によって可能になるような何かであるのだが、さらに井川耕一郎は、その後に引用される『座頭市地獄旅』での市と十文字との将棋のシーンの引用によって、市と十文字の対関係の成立に「読む」ことから「見る」ことへの移行が、不可欠なプロセスとして存在していることを示そうとする。
 このような移行のプロセスとそれによる対関係の成立は、『ニューハーフ物語』のユカとレイコの間にも見出すことができる。それは十文字の晴眼から盲目への移行が具体的には、市の将棋の指し方の模倣であったように、ユカがレイコを模倣する場面である。その場面とは、前出の賭けで敗北したレイコが一人夜の楽屋で鏡の前で裸になる場面の直後、自宅に帰ったユカが同じように鏡の前で裸になってみせる場面のことである。鏡をジッと見つめるユカにこのようなモノローグが被さる。「お婆ちゃん、その夜ずっと私、痛みを感じていました。でもその痛みはこの手の痛みじゃなく、レイコ姉さんの痛みだったような気がします」。
言わば、このシーンによってユカは、未だ経験していない性転換手術の痛みを模倣したのだ。そのことによって、ユカはすでに性転換手術を経験しているレイコと一対一の関係を結ぶことになったのだ。
 僕は先にこの映画がジャンル映画であると述べたが、彼はこの映画をジャンル映画として成立させるために不可欠な手続きとして、これらのプロセスを描いているようにみえる。言い換えるなら、そこにおいて井川耕一郎はジャンル映画を可能にする条件に触知しようとしている。
 しかし、なぜ彼はそうするのか。伊藤大輔がそうであったように、井川耕一郎もまた映画を1からではなく、0から始めようとしているからなのだろう。伊藤大輔が映画文法の外にいたように、井川耕一郎はジャンル映画の自明性を疑うような場所に立っている。それは作者固有の何かであるが、しかし決して作家性と呼ばれるようなものではない。なぜなら作家性もまたジャンル映画と同じようにすでにある規範を前提しているからだ。そのよう意味で、いわゆる作家性とは結局のところテクニックでしかなく。しかもそれは、例えばこの映画で山岡隆資が示したテクニックに技術的にいって遠く及ばない。


 伊藤大輔に「読む」のではなく「見る」ことを促すような何かを感じ取った井川耕一郎は、それが伊藤大輔の映画論と無縁ではなかったと指摘している。だとするならば、僕たちは井川作品を「読む」ようにではなく「見る」ように見なければならないのではないか。
 ユカの生き方に元気づけられたり、ニューハーフ達の器官なきセクシャリティーに対して同情を感じたりするは、この映画を「読む」ことにすぎない。そこに「痛み」を「見る」こと。僕たちにはそれが求められている。その時の「痛み」とは、ユカの手の痛みでないことは言うまでもないが、しかし、レイコの痛みでもない。それは映画を「見る」ことの痛みであり、他者を「見る」ことの痛みである。
 あなたはこの映画に何を感じただろうか?