『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(非和解検査)

鈴木と高橋はいずれも新しいパンティーを開発しようとする人物であるが、鈴木は染みを、高橋は匂いを付加することを目論んでいる。彼らはそれが新商品の付加価値たりうると考えているようであるが、冷静に考えれば分かるように分泌物の匂いや染みの付着したパンティーなど―――それが擬似的なものであっても―――デパートで売れるはずがない(※)。パンティーという「商品」に、その価値を打ち消す属性を与えようとする彼らは、映画の展開において一見対立しているように見えても実は相似的な存在なのである。


彼らがそれぞれ理想的な染みであったり、匂いであったりを探していく過程は、その目的自体が不条理であるために逸脱を繰り返す。鈴木の探究は、一見似ても似つかないもの同士―――粘性の異なる「膣分泌液」と「インク」、「ロールシャッハテスト」と「京子のパンティーの染み」―――を結びつけ、その対が入れ替わっていくことで横滑りしていく。そして、ついには「パンティーが、邪魔だ!」と口走ると、鈴木はそれを剥ぎ取って秘部の匂いを嗅ぎ始めてしまうのである。鈴木と高橋の差異を規定していたはずの[染み−匂い]が入れ替わるのだが、この嗅覚の突然の目覚めは既に先行するエピソードの中で予感的に示されている。鈴木は高橋と共に風の中でまどろんでいる京子に誘発されるかのように研究室で居眠りするのだが、その夢の中で彼は全裸の彼女によって陰茎を愛撫される。その際に京子は呟く。「鈴木くんのってかわいいのね・・・子犬のみたい」。そして、デスクに両手をつき、尻を突き出して鈴木を受け入れながら、「ワン!」とうめくのである。[鈴木の陰茎−子犬の陰茎]、[京子の声−犬の鳴き声]という対が入れ替わり、人間と犬が入れ替わる。彼が、京子のサドルの匂いを執拗に嗅ぐのはそのためだ。そして、現実に京子との性交渉が生起するにいたり、決然と弁別されるはずの[夢−現実]の対すらも頻繁に入れ替わるようになる。


一方、高橋はアフリカから取り寄せたシマウマ、マントヒヒ、コウモリの膣分泌物を鼻粘膜から直接吸う―――その仕種は、嗅ぐというよりもむしろ麻薬の粉末を吸う仕種と酷似している。実際にシナリオでは、空港で麻薬と間違えられている―――作業に没頭する。その匂いは鈴木によると「死体の臭い」であり、高橋は次第に「死」へと接近し始める。匂いを嗅いだ高橋が見るのは交通事故で「死んだ」恋人・秋子の写真であり、夢の中で全裸の秋子と遭遇した高橋は「ダッチワイフのようにうつろな目」の彼女と性交する。前述のように、この作品においては[夢−現実]が容易に入れ替わるのであるが、それもまた京子によって媒介される。


町を自転車で走る京子は、写真の秋子にそっくりな女・夕子と遭遇する。京子は夕子を高橋の前に出現させるが、十字路を渡ろうとする夕子は車に轢かれそうになり、危うく高橋から救われる。[秋子−夕子]、[(交通事故の起こった)過去−現在]が入れ替わっているのであるが、そうした死への接近を呼び込んだのが、「死体の臭い」に取り憑かれた高橋なのか、「秋子の幽霊」たる夕子のどちらなのかは判然とせず、彼らもまた対を成し、入れ替わっていく。夢の中と同様に二人は同衾するのであるが、高橋は奇妙な一言を呟く。「俺が寝たいのは、幽霊だ・・・ホントの幽霊なんだ・・・」。そして、高橋は夕子の全身を包帯で巻き、自らはビニール袋に口を押し当てて性交に及ぶのである。[夕子−秋子]の入れ替えから、さらに[秋子−秋子の幽霊]の入れ替えへと発展し、高橋は実体ではなくむしろその幽霊を探求するようになる。だが、それは鈴木ともども自己発見に過ぎない。彼らは、そもそも「下着」という実体ではなく、その実体に対し矛盾をきたす「染み」や「匂い」、すなわち「幽霊」を探していたのである。形を取りえないもの、捕らえられないもの、見定めようとするとぼやけるもの・・・彼らの身振りは「取り戻せない」ということを取り戻そうとする意味で、まさにフェティシストのそれである。彼らの追求が常に横滑りし、目的が矛盾に満ちているとしても、それこそが彼らの欲望を反映しているのである。


そして、二人のフェティシストの上司たる京子は、彼らの欲望を充足させようと目論む。彼女は自らの半裸の体をビニール袋(シナリオではコルクで蓋をした大きな瓶)の中に入れて、彼らの目に曝す。闇の中、その裸体は鈴木と高橋によって懐中電灯の光を浴びせられ、臍や鳩尾や乳房などのイメージへと分解されていく。京子の肉体はぼやけ、全体像を失い、彼女は彼女の「幽霊」と入れ替わる。それはまた、「死」への漸近でもあり、彼女はビニール袋の中で気絶するのである。やがて、ビニール袋から救い出された京子と二人は乱交に及ぶのであるが、そこでは[生−死]もまた入れ替わり、幽霊は幽霊の幽霊、さらに幽霊の幽霊の幽霊・・・へと転じていく。闇の中で互いに見分けがつかなくなる中、単なる「性交渉」ではない、「性質」の「交換」としての「性交」が続くのである。


本来非対称的なものが結びつけられ、その対が入れ替わることで差異が無効化し、意味や価値が横滑りしていくという物語展開は、監督・鎮西尚一および脚本・井川耕一郎のどちらの作品系列にも散見されるものであるが、死に漸近する生の様態を追求するという点においても二人は共通しているともいえる(鎮西は生が死と唐突に入れ替わる曖昧な様態を、井川は生が死の中に、死が生の中に執拗に滞留する様態を追求しているという差異はあるが)。そして、その二つを結びつけるものがまた、フェティシズムであることも興味深い(これもまた、鎮西はマルクス的な価値形態論を展開し、恐慌に至るのに対し、井川はアブジェクティヴなもの―――ぬるぬるした原生質的なもの、言い間違い―――に固執するという差異がある。シナリオにおいては、井川は東南アジアの男を導入し、「アローイ」と「あおーい」、「(ストッキングの)デンセン」と「(性感染症の)デンセン」などの意味の取り違い、言い違いを執拗に生起させている)。


ラスト、京子が去り、取り残された鈴木と高橋(シナリオでは前述の東南アジアの男も含めた三人)は、残されたパンティーに顔を埋めて「イッツ・アラーイブ」と叫ぶ。その「アラーイブ」という言葉の意味は、deadの単純な対義語としての意味からずれているのはいうまでもないであろう。


(※)もちろんデパートで売るのでなければ、染みつき、匂いつきのパンティーも十分に商品価値を持つであろう。