片桐絵梨子『きつね大回転』について(井川耕一郎)

 町で悪さをしているきつねを退治してください、という手紙を文子と遠藤は受け取る。けれども、町にやって来た二人の前に、手紙で仕事を依頼してきた人物はまったく姿を現さない。町のひとにきつねの被害を訊いても、ええ?そうなの?という答になっていない答しか返ってこない(公園で遊ぶ女の子が、ひとりごとみたいに「お母さんが言ってたよ。お父さんは女狐にやられたんだって」と言っているけれども)。
 それにまた、道ばたにぶっ倒れている男どもはきつねの被害者らしいのだが、文子と遠藤は彼らにまるで気づかないのだ。そればかりではない。二人は、きつねをおびき寄せる餌に最適なのは油揚げか肉かで意見が分かれてしまう。どうやら文子と遠藤はもののけ退治のプロとしてはまだまだ駆け出しというか、きつねに関してほとんど知識がないようなのだ。本当にこんな連中に仕事をまかせてしまって大丈夫なのだろうか。
 具体的なきつねの被害も分からなければ、きつねの退治方法もよく分からない。ここまで事態がまぬけだと、二人のもとに届いた手紙の意味も変わってくるだろう。結局、手紙が二人に告げようとしていることは文面とは別のことなのだ――きつねに出会って、たぶらかされてみてはいかが?
 ところで、文子が神社の境内にしかけた罠にかかったのは、一人の女だった。足首に罠が食いこみ、血がにじんでいるというのに、遠い目をして油揚げをかじっている見るからに妖しげな女。彼女がきつねであるのは明らかなのだが、しかしそれにしても、こんなにも簡単に捕まってしまったのは、所詮、古風なもののけだからなのか。いや、そうではないだろう。
 このきつね女の姿は私たちに別の映画を思い出させる。監督の片桐絵梨子が西山洋市のために脚本を書いた『死なば諸共』。西鶴原作のこの映画のラスト近くで、明石という遊女は、主人公・戸那の会いたいというメッセージを伝えに来た使いの少女にこう告げる。「あげてやんなさい。ひどい目にあわせてやりましょう」。明石のこの挑戦的な態度は、『きつね大回転』のきつね女にも受け継がれているように思う。きつね女はわざと罠にかかってみせたのだ。
 『死なば諸共』の戸那は、明石の「ひどい目にあわせてやりましょう」という返答を使いの少女から聞くなり、いいねえ!と言って、にやりと笑う。戸那ほど意識的ではないけれど、遠藤の場合も、きつね女と出会ったとたん、無意識がいいねえ!と起動してしまう。そして、きつね女にあっさりたぶらかされてしまうのである。
 忘れられないのは、遠藤ときつね女が夜道を歩くシーンだ。きつね女はふと足を止めると、「柿の実、美味しそう……」とつぶやく。「渋柿ですよ」と遠藤は言うのだが、それでもうっとりと柿の実を見上げたままだ。すると、女の身がひとりでにすうっと浮く――いや、浮いたのではなく、遠藤が肩車をしたのであった。
 きつね女は柿の実に手を伸ばすが、そのとき、背後で物音がする。「逃げて!」という女の命令に体がすぐに反応して、駆けだす遠藤。きつね女は闇の中をすべるように飛ぶように進んでいくのだが、カットが変わると、何と彼女は一輪車に乗って走っている。そして、自転車置き場に一輪車を置くと、「また明日ね」と去ってしまうのである。
 この夜道のシーンを見て、やったな、片桐絵梨子!と大工原正樹は思ったという。たしかに、この場面は素晴らしい。置き去りにされた一輪車がカタン!と倒れた瞬間、私たちははっと我に帰るだろう。そして、ついさっきまで、きつねにたぶらかされたいという欲望を遠藤と共有していたこと、きつね女に対して遠藤が一輪車になってまで奉仕するさまにマゾヒスティックな歓びを感じていたことに気づくのだ。


(注意! 以下の記述の中にはネタバレの部分があります)


 さて、翌朝、文子は人間の姿に戻った遠藤が道ばたに倒れているのを発見し、すっかり呆けてしまったその顔を見て、「まんまと騙されて」とつぶやく。男は女の誘惑にころりとまいってしまいやすい愚かな生き物だが、女は同性を見る目が厳しく、そう簡単にはだまされないということなのだろうか。いや、片桐絵梨子が語ろうとしていることは、もうちょっと複雑なように思える。
 話は前に戻ってしまうけれども、気になっていながら書き忘れていたシーンが一つある。神社の境内で遠藤ときつね女が親しげに話すのを文子がのぞき見るというシーンがそれだ。文子はそうっと忍び寄り、二人の様子を木の陰から観察する。ところが、見ていて思わず笑ってしまうのは、遠藤・きつね女までの距離があまりに近く、文子ののぞき見が二人にばれてしまっているということだ。
 一体、これはどういうことなのだろう。文子がしようとしていたことは、遠藤を心配して成り行きを見守るということではなくて、のぞき見る自分をきつね女にわざと見せつけて、それ以上、遠藤に近づくな、と警告することだったのだろうか。けれども、警告が目的ならば、文子は二人の会話に強引に割りこんでみせた方がよかったのではないか。
 ひょっとしたら、文子が至近距離からのぞいていたのは、二人の間に割りこもうとするためだったのかもしれない。だが、前に進めなくなるような何かが彼女の中で起きた。文子は二人の様子を見ているうちに、それまで想像もしていなかった未知の欲望にとり憑かれてしまったのではないだろうか。
 そういえば、片桐絵梨子が脚本を書いた『INAZUMA 稲妻』(監督・西山洋市)に出てくる千華は、パートナーの男を別の女に奪われる危機に陥るという点で、文子とよく似た立場にある。千華は夫の加嶋が主演するTV時代劇を見ているうち、次第に不安になってくる。加嶋とセリの演じる死闘が、傷つけられることに快楽を見出している倒錯的なセックスに見えてきたからだ。
 そこで千華は夫の加嶋を取り戻そうとするのだが、ここで興味深い事態が起きる。千華はセリを慕う消防士の正留にわざとさらわれてみせる。そして、洞窟の中を逃げまわる姿を正留に撮らせ、その動画をメールで加嶋に送りつけるのだ。要するに、千華はどこまで意識的なのかは分からないが、敵であるはずのセリと同じことをしているのである――男の愛を獲得するために迫真の演技をしてみせること。
 結果として、『INAZUMA 稲妻』の千華は加嶋の愛を取り戻すことができないまま終わる。ラストで、加嶋は千華と正留が乗る小舟の綱を断ち切り、セリとの戦いを選ぶ。千華は下流へと流され、加嶋からどんどん離れていってしまうのだが、しかし、小舟の上で彼女が感じていたのは敗北感だけなのだろうか。
 監督の西山洋市は、加嶋とセリの戦いを小舟の上から呆然と見つめる千華の主観ショットに十字のマークを入れている。それは『INAZUMA 稲妻』の中に何度も出てきたカメラのファインダーを模したカットと同じものだ。ということは、こうは言えないだろうか。西山は片桐絵梨子が書いたラストから千華の屈折した欲望を読み取った、と。
 千華はTV時代劇を見ているうち、不安を感じる一方で、ドラマ製作にまた参加したいという欲望にも囚われだした……。だとしたら、ラストシーンで彼女が感じているのは、夫の愛を取り戻せなかった悲しみだけではないだろう。流されゆくボートの上から見る加嶋とセリの姿ほど画になるものはないのだ。このとき、千華の体はカメラを演じることを選ぶ。そして、カメラになりきって加嶋とセリに奉仕することにひそかにマゾヒスティックな歓びを感じていたのではないだろうか。
 たぶん、『INAZUMA 稲妻』での西山のシナリオの読み方に触発されるようにして、片桐絵梨子は『きつね大回転』のシナリオを書き、演出をしていると思う。木の陰からきつね女と遠藤をのぞき見るとき、文子は何を思っていたのだろう。きつね女を嫌悪しながらも、彼女の口から漏れる言葉にひそかに惹かれていったのではないか。
 きつね女の言葉は、文子の耳には意味不明な音のつらなりにしか聞こえない。「なぉ…し…れ…に…な…い」「わ…い…あ…い…」。けれども、遠藤はきつね女の言葉が分かるらしく、「そんなお礼なんて」「え、いいんですか」と返答する。おそらく、このとき、文子は、神社の境内に罠をしかけたあと、遠藤とかわしたこんな会話を思い出したはずである。「一旦ホテルに戻るぞ」「ホテル……? いちゃいちゃしてると夜が明けるよ」「いちゃいちゃ?」「いちゃいちゃ」「……あほか」。
 「いちゃいちゃ」という擬音語ふうの言葉が拒絶され、逆に言葉なのかどうかがあやしいものの方が受け入れられてしまうという事態。人間の言葉になりかけのような(あるいは、人間の言葉でなくなりかけているかのような)きつね女のできそこないの言葉に、文子は嫉妬したにちがいない。しかし、嫉妬するということは、魅せられてしまったことの裏返しではないだろうか。
 文子のその複雑な内面があらわになるのは、遠藤ときつね女の婚礼が行われる晩のことだ。文子はきつね女の屋敷に乗りこみ、白無垢姿の彼女と対峙する。当然、二人の対決において問題になるのは言葉である。「…わ…きょ…さ…な…」としゃべりだすきつね女に向かって、文子は「こら! はっきり言いなさい!」と怒鳴る。すると、きつね女は「わらわ、お嫁さん……あの人に決めます……」と、きれぎれの人間の言葉で意思を告げたあと、文子にこう尋ね返すのである。「あなた、あの人に、惚れていますか? 惚れていませんか?」「おかしいですね、はっきり言えない」。
 文子がきつね女の問に答えられないのは、もう自分の言葉が遠藤の心に届かないことを知っているからだ。このままでは遠藤を奪われてしまう……ひとりぼっちで生き続けることになってしまう……。文子はきつね女に追いつめられていく。
 すると次の瞬間、文子は唐突に態度を変え、驚き呆れた飛躍をする――きつね女に向かって「ワン!」と吠えたのだ。『INAZUMA 稲妻』の千華は加嶋を取り返すために、セリの真似して演じることを選んだが、それと同じことを文子も行ったと言ったらいいだろうか。文子は遠藤を取り返すために、きつね女の真似をして人間の言葉ではないものを叫ぼうとしたのである。
 文子は「ワン!」と吠えたのを境にして、人間の言葉を失ってしまう。しかし、このことは彼女がもののけの言葉を獲得したということではないのだ。文子は遠藤のもとに戻って話しかけようとするが、思いはどんな言葉にもならず、ただうめき声しか出てこない。しかも、遠藤は魂をなくしたぬけがらのような状態になってしまっている。
 それでも、文子は遠藤を背負って屋敷を出ていく。だが、歩いても歩いても、彼女はなかなか異界から脱出することができない。まるで足もとの砂がさらさらと下へ下へと流れ落ちる中、それでも必死になって蟻地獄から這い上がろうとしているかのようなやりきれなさが、彼女を襲いだすのである。
 一体、文子を異界に引き止めているものは誰なのだろう。遠藤と結ばれることを願うきつね女なのか。それとも、きつね女に魂を奪われた遠藤なのか。いや、本当は文子自身なのかもしれない。ひょっとしたら、文子の無意識は、奪われた男を奪い返すという行為を通して愛を実感し、むさぼり味わっているのではないだろうか。彼女にとって、愛する歓びとは蟻地獄のどうしようもないやりきれなさと表裏一体のものなのだ。だとしたら、異界をぬけ出てこの世に戻ることを彼女が望んでいるはずがない。
 片桐絵梨子が『きつね大回転』で描こうとしたものは、きつねにたぶらかされたいと願う女の欲望である。ただし、女の欲望は、男の欲望のようにストレートなものではなく、もっと倒錯的である。女がきつねにたぶらかされるには、きつねにたぶらかされた男を必要とする。きつねにたぶらかされることに快楽を見出す男に仮に名前をつけるとしたら、それは「たぬき」ということになるだろうか。女はたぬきを背負って蟻地獄を這い上がろうとするときに、きつねにたぶらかされる快楽を存分に味わうのである。

『きつね大回転』
22min/DV/スタンダード/2008
出演:松元夢子、圓若創、石川美帆
スタッフ:撮影:鈴木昭彦 録音:高田伸也 助監督:高杉考宏 ヘアメイク:市川温子 整音:長村翔太 音楽:竹田和也 スチール:浅見友紀乃 
監督・脚本:片桐絵梨子


片桐絵梨子の『きつね大回転』は、「桃まつりpresents真夜中の宴」の一篇として、ユーロスペースでレイトショー公開されます(4月3日(木)〜4月6日(日)・21:10から)。
桃まつりpresents真夜中に宴」の詳細については、公式サイトをご覧下さい。
 公式サイト:http://www.momomatsuri.com/