万田邦敏『接吻』について(井川耕一郎)
(以下の文章は2006年11月3日に「プロジェクトINAZUMA」BBSに書かれたものです)
今週は万田邦敏『接吻』(『ありがとう』の次に撮った作品)の初号試写に行ってきました。
『ありがとう』は未見なのですが、いやあ、『接吻』は本当に素晴らしかった。
映画は、豊川悦司が動機不明の殺人事件を犯し、逮捕されるところから始まります。
その逮捕の瞬間を小池栄子がTVのニュースで見てしまう。
すると、小池栄子は急にコンビニに行って、新聞や雑誌を買い込み、記事の切抜きをノートに貼り、豊川悦司の経歴をまとめはじめるわけです。
さらに彼女は、裁判を毎回傍聴し、拘置所に差し入れを送り、手紙を書く。あなたを本当に理解できるのは私だけです、といった感じの手紙を。
一体、こりゃどういうことなんだ?
思いこみの激しい女性の恋愛を描こうってことなのか?
と見ているこっちはあれこれ考えてしまうのだけれど、映画は勝手にどんどん進んでしまう。
ところが、ふいに小池栄子が立ち止まってしまうわけです。
わたしは豊川悦司のことをすべて知っているつもりだったけれど、彼がどんな声をしているかだけは知らない、と(豊川悦司はずっと黙秘したままという設定)。
そのあと、法廷で裁判官から「何か言うべきことはないか」と訊かれて、豊川悦司は「ありません」と一言だけ言うのですが、
その声を傍聴席で聞いた瞬間の小池栄子の顔がただごとではないのですね。
実に素晴らしい。
あの顔つきは、何と言ったらいいのか……、「法悦」という言葉が一番ぴったりではないか、と。
小池栄子は豊川悦司に恋をしているというより、豊川悦司の向こうにいる何か別の存在を熱烈に希求しているように見える。
この世界からつまはじきにされていると感じている小池栄子は、その何かと結びついて、別の世界をつくろうとしているかのようです。
要するに、『接吻』は、「神」という一語を言わずに、宗教的な情熱を描いた映画ではないか。
信仰をもたない者が、信仰にギリギリまで迫った映画ではないか、とぼくは見たわけですが……。
公開前だから詳しいことは書けませんが、
実際、拘置所の近くにアパートを借りて、工場で働きながら、毎日せっせと面会する小池栄子の姿には、修道女を思わせる厳しさがありましたね。
それにしても、『接吻』の小池栄子がいいのは、布教活動をしないことです。
たった一人きりの宗教をとことん究めてようとしていて、そこが潔くて美しい。
おーっと、長々と感想を書いてしまいました。
とりあえず、編集後記ふうの雑文はここまで、ということで。