伊藤大輔『この首一万石』(井川耕一郎)
(以下の文章は「プロジェクトINAZUMA」BBSに書いたものの再録です)
人入れ稼業の井筒屋の人足・権三(大川橋蔵)は、浪人の娘・千鶴(江利チエミ)と相思相愛の関係。
けれども、身分が違うから、一緒になることはできない。
ああ、生まれ変わってくる時には、侍に生まれたい!とやけ酒を飲んで井筒屋に戻ってみると、小此木藩の道中のおともをする仕事が入ったと言われる。
この小此木藩の道中が「胞衣道中」という設定になっていることに、まず、はっとしましたね。
胞衣(えな)とは、出産のとき、赤ん坊のあとに出てくる胎盤のこと。
この胎盤をきちんと埋葬しないと、赤ん坊は健やかに育たないと言われている。
というわけで、胞衣を江戸から故郷の小此木藩まで運ぶ必要が出てきたというわけですね。
伊藤大輔は身体障害のほかに、分身にもこだわりつづけてきたひとで、
『続大岡政談 魔像篇』のあらすじを読むと、
大河内傳次郎演じる神尾喬之助の復讐を助けるために、彼そっくりの姿をした者たちが六人現れて、江戸を混乱させるという展開が映画の後半にあるらしい。
伊藤大輔が脚本を書き、三隅研次が撮った『眠狂四郎 無頼剣』もまた、分身がこれでもかというくらい過剰に出てくる映画だったし、
『鞍馬天狗』でヤコブ商会がつくる贋金も分身といえるでしょう。
だから、伊藤大輔が赤ん坊の分身である胞衣に惹かれたとしてもおかしくはないわけですが、
それにしても、「胞衣道中」なんて、そんな奇妙なことが本当に行われていたのだろうか?
(もちろん、伊藤大輔のことだから、資料を徹底的にあさって見つけてきたネタなのだろうけれど……)
ちょっと笑ってしまうのは、一年のうちに三度も胞衣道中を行うはめになり、予算がなくなりかけているという設定ですね。
それで、胞衣道中の担当者は、経費削減のために人件費の安い人足を雇うことにした。
当然、道中の間も倹約は行われ、人足たちは晩飯のときに不満をこぼす。なんだ、徳利の一本もつかないのかよ、と。
すると、あとから若い侍がやってくるのですね。
ほんの口汚しにも足りまいが、と言いながら、自分たちの晩飯についてきた酒のあまりを持ってくる。
こういう侍たちの姿を見ていて思うのは、伊藤大輔は侍をサラリーマンとして描こうとしているな、ということですね。
となると、人足たちは今どきの呼び方で言うなら、派遣労働者ということになるでしょうか。
さて、胞衣道中の一行がある宿場で一泊しようとしたときのこと。
本陣に落ち着いた小此木藩のもとに、渡会藩の使者が来て、本陣を譲ってくれないか、と言いだす。
小藩だからと言って見くびられてなるものか、と小此木藩の侍たちは意地をはるのですが、
結局、金をこっそり受け取って脇本陣に移ることに。
ところが、足にケガをして遅れて宿場に到着した権三はそんな事情などまったく知らない。
槍を本陣の玄関に立ててしまったために、渡会藩は激怒し、責任者の首をさしだせ、と小此木藩に要求する事態になります。
小此木藩の侍たちは頭をかかえる。こんなことで腹など切りたくない、と。
と、中の一人が言うわけですね。
権三の首をさしだそう。もとはといえば、これは権三が犯した失敗なのだ。それにやつは武士になりたいと日頃から言っていたではないか。
かくして、千鶴によく似た遊女(またしても分身のテーマ)のもとで飲んでいた権三は、宿に呼び戻され、髪結いの手によって侍ふうの髪形になる。
そして、小此木藩の侍たちは刀をぬいて言います。
黙って死んでくれ。死ねば、お前の望みどおり、侍にしてやる。
侍たちのムチャな要求に権三の酔いはふっとぶ。当然、死ねという命令を拒絶する。
そして、ここから権三と侍たちの死闘が展開するわけですが、これがとにかくすさまじい。
権三のふりまわす槍が、侍の顔を切り裂く。
口に突き刺さった槍の先が後頭部から飛び出る。
権三も傷だらけになり、ついには侍が投げた刀が目に刺さり、失明する。
もうスプラッターといってもいいような残酷描写がこれでもかと続くのですね。
結局、権三は代官所の鉄砲隊の一斉射撃によって命を落とすのですが、
地べたにただ倒れるだけの死に方なんて、主人公の死に方ではない、と伊藤大輔は思っているのでしょう。
一斉射撃の寸前、権三はあっ!と驚くようなアクションを見せます。
しかし、これについては、見てのお楽しみということで書くのはよしておきましょう。
それにしても、『この首一万石』という映画は、「派遣労働者残酷物語」とでもいうべき内容のドラマで、今の時代に通じるところがある。
ひどく生々しいというか、救いがないというか……。
フィルムセンターで16日(日)14時から上映されるので、この機会に見てはどうでしょうか。