福間健二『岡山の娘』について(1)(井川耕一郎)

福間健二『岡山の娘』はポレポレ東中野で現在公開中です)


 映画が始まって七、八分たったくらいだろうか、友人の智子を後ろに乗せて自転車を走らせていたみづきは、ふいに自転車を乗り捨てると、ベンチに腰かけて呟く。「わたし、まだめんどくさい。ごめん」
 このみづきの芝居には、はっとした。青春映画っぽいというより、生の青春が映っているような気恥ずかしい感じ。けれども、なぜそう思ったのか。
 自転車に二人乗りするちょっと前に、智子はみづきに「苦労した?」と尋ねる。
 すると、みづきは「した、した、すごくした」と答えるのだが、その言葉が持つリズムに触発されたのか、二人は「いい、いい、いい気持ち」「うそ、うそ、何も感じない」というふうに言葉遊びを始める。
 ということは、みづきの「わたし、まだめんどくさい」という台詞の裏にあるものは、母の急死によってふりかかってきた問題を早く片づけてほっとしたいという気持ちだけではないだろう。
 言葉を自由にたくみにあやつって何ごとか表現できる日がいつか来ればいい、という思いもあったのではないか。
 そして、そういう願いを自分も十代の頃には持っていて(今はもうそんな日は来ないのだと分かっている)、自分が書く言葉、話す言葉の稚拙さにうんざりしていた。だから、生の青春が映っているような気恥ずかしさを感じ取ってしまったのだろう。


 だがそれにしても、言葉で遊ぶのなら、みづきは「うそ、うそ、何にも感じない」などと言うべきではなかったように思う。
 今ここにいる自分から離れて、もっとナンセンスなことを口にした方がよかったのではないか。
 いや、みづきもそう考えて、言葉遊びをやりだすシーンがあるのだ。
 川原で男の子とキャッチボールをするシーン。このシーンの後半で、「何か面白い話をしてよ」と男の子にせがまれて、みづきは自分たちが銀行強盗になる話をその場ででっちあげて話そうとする。
 けれども、できない。「なぜつかまらないかと言うとね」と言ったところで早くも言葉につまってしまうのだ。「ダメだ。今日はつかまっちゃうかも。頭が働かんから」
 そんなみづきに対して男の子は言う。「つかまったら、脱走すればいい」
 要するに、男の子は、多少のいいかげんさ、でたらめさには目をつむってあげるから、どんどん展開する話をしてほしい、とみづきに求めているのだ。
 なのに、なぜみづきは子どものやさしい要求にこたえられないのか。


 それは、今まで一度も会ったことのない父、立花信三からの手紙を受け取ったためだ。
 「私は君に何もしてやれないかもしれない。でも、会いに行く。会ってほしい」と立花信三は娘に向かって書く。それを読んで娘のみづきはどう思ったのか。
 血のつながりだけを根拠にしてわたしに会いたいというのなら、今までのわたしの人生は何だったのだろう。父の子であるということ以外は無意味なのだろうか。そう思ったのではないだろうか。
 父を前にしたとたん、わたしの人生は消え去ってしまう――そんな危機感を感じたのではないか。
 こうして、みづきの中にあった言葉を自由にたくみにあやつって何ごとかを表現したいという欲望は、「何ごとか」を見つけることになる。
 みづきには自分の人生を物語る必要ができたのだ。だから、男の子の要求にこたえられなくなってしまったということなのだろう。