福間健二『岡山の娘』について(2)(井川耕一郎)

 けれども、「これがわたしの人生です」と自信をもって物語ることなどできるものだろうか?
 そういえば、気になるシーンが映画のはじめの方にある。みづきを含む五人の女性たちに向かって、「なぜ岡山にいるのですか?」と尋ねるシーンがそれだ。
 このシーンで、みづき以外の四人は演技ではなく、素の自分として質問に答えているように見えるのだが、気になるのは答の言葉ではない。四人のうち二人が黙っていることだ。
 この二人の沈黙は、映画を見ている私たちに「なぜ岡山にいるのですか?」という問の意味を考えるようにうながしていると思う。
 「なぜ岡山にいるのですか?」という問に迷わずにすぐに答えられるのは、自分の意志で岡山に住むことを選んだひとたちだけだ。
 しかし、岡山で生まれ育った場合、そんな選択を迫られることもないまま生きてきたひとたちもいるだろう。そういうひとにとって、「なぜ岡山にいるのですか?」はどう答えていいか分からない問になってしまう。
 それは、「あなたは生まれたときに岡山についてどう思いましたか?」と尋ねているようなものだから。


 「岡山で、夢のかたすみで1」というタイトルのついたパートで、みづきは語る。「母さんが死んでから、わたし、夢の中でいろんな人間になっとる」「誰かがわたしになった夢を見ている」
 ここでみづきは、今ここにいる自分のことを物語りたいのに、それがうまくできないもどかしさについて語っている。だが、一体なぜそうなってしまうのか?
 それは、私たちが自分が生まれたときのことを覚えていないからだ。自分の始まりについては、ひとの記憶、ひとの言葉に頼って近づいていくしかない。
 だから、私たちには、「これが自分の人生です」と自信を持って物語ることなど決してできないだろう。始まりでつまづいてしまうから、「これは本当に今ここにいるわたしの人生の物語なのだろうか?」という思いにとらわれてしまう。
 しかし、考えてみると、これはちょっとおかしな話だ。
 もとはといえば、父を前にすると、自分の始まり以外は無意味なものになってしまうという不安から、みづきは逃れようとしていたのではなかったか。なのに、気がつくと、自分の始まりにこだわってしまっている。


 だが、今ここにいる自分について物語るには、自分の始まりがどうだったかを知らなくていけない、とみづきは思うようになっている。
 そこで、みづきは自分の始まりに接近するある方法を選ぼうとするのだが、その方法は、母の靴をはいて夜の町をさまよう画と、詩の朗読を組み合わせた形で示される。
「夜、二十歳の彼女は/まだ子どもの指で/死んだ母の遺した靴をなぞる」
「その靴をはいて母は外に出た/それについて一言も話さなかった」
「今、娘も外に出る/自分の靴よりもぴったりなその靴をはいて」
 要するに、みづきは母を演じることで、自分の始まりがどうだったかを想像してみようと考えたのだろう。ということは、つまり、この方法でいくのなら、みづきは赤ん坊を産む体験をしなくてはいけないことになる。
 だが、父の立花信三はもうじき帰ってくるのだ。それまでに出産など体験できるわけがない。みづきの自分の始まりに接近しようという試みは、こうして挫折することになる。


 みづきは小学校のときの先輩・さゆりの紹介で青果市場で働くようになるのだが、それは単に生活のためというだけではないだろう。
 みづきは自分の始まりについて考えるのをやめるために、体を動かして働いているのではないだろうか。
(さゆりは青果市場で働くことについて、「疲れて、疲れすぎて、自分が空っぽになるのが妙に楽じゃったりして」と語っているが、これと同じことをみづきも感じたにちがいない)
 しかし、面白いのは、青果市場で働くうち、みづきは競りのときの指の合図に興味を持つようになってしまうことだ。
 競りのときの指の合図――それは言葉だろう。みづきは言葉から離れ、考えるのをやめようとしたはずなのに、気がつくと、また言葉のそばに戻ってきている。
 そして、喫茶店でおぼえたばかりの指の合図をうれしそうにくりかえしていたみづきは、その直後、父の信三と唐突に出会うことになる。


 父を前にしたみづきはほとんど何も言うことができない。
 だが、立花信三と別れたあと、みづきは橋の上から川を見つめながら、父に向かって言うつもりだった言葉のことを考える。
「(妊娠中の)母さんは自殺しようとした。つまり、母さんはまだ生まれていないわたしを殺そうとした。つまり、母さんとあなたは、わたしをつくって殺そうとしたんだ――とわたしは言えなかった」
 どうしてみづきはこの台詞を言うことができなかったのか。
 それは、「つまり……つまり……」と言うたびに、みづきが生まれてこなかったもの、この世に存在するはずがないものになっていってしまうからだ。
 みづきの中にある言葉は、今ここにいる自分をとらえることができない。それどころか、今ここにいる自分からどんどん遠ざかっていってしまう。
 今ここにいる自分について語るにはどうしたらいいのか? 橋の上のみづきは一度は放棄した問にふたたびとり憑かれることになる。