福間健二『岡山の娘』について(3)(井川耕一郎)
「つまり、母さんとあなたは、わたしをつくって殺そうとしたんだ――と、わたしは言えなかった」というみづきのナレーションのあと、映画は夕陽を映し、ゆっくりフェイドアウトする。
そして、字幕が出る。「わたしには関係ないとは言えないだろう。あのことも、このことも。」
この字幕をどう受け止めたらいいのだろうか。
というのも、字幕のあと、「intermission」というパートが続き、みづき、智子、さゆり役の三人の出演者がコントを演じるのだが、そこで彼女たちは昔懐かしいスケバンふうにこう叫ぶからだ。
「そこのてめえら、黙りやがれ!」「あたしは生きたいように生きていく!」
そして、コントが終わると、「みづきの話から推測した智子による人物紹介」というパートになり、智子のナレーションで登場人物一人一人のことがあらためて紹介されるのである。
関係を拒絶するパートのあとに、関係を整理するパートが来てしまうというぎくしゃくした展開。
この展開は、夕陽のあとに浮かび上がった字幕の受け止め方を変えるものだろう。
たぶん、「わたしには関係ないとは言えないだろう。あのことも、このことも。」という字幕は、「わたしは自分に関係あるものから逃げたくはない」というみづきの意思を伝えるものではないのだ。
字幕は正確には二つに分かれていた。「わたしには関係ない」「とは言えないだろう。あのことも、このことも。」というふうに。
だとしたら、夕陽のあとの字幕は、関係を拒絶したいという思いと、関係から逃げたくないという思いの二つを並列したものではないだろうか。
そして、そんな正反対の二つの思いを同時に持ってしまうものが、今ここにいる自分なのかもしれない、と告げようとしているのではないか。
「みづきの話から推測した智子による人物紹介」というパートのあと、みづきは二つのことを行う。
一つは、母の友人である水野照子に若い頃の母について尋ねること。これは、父との関係から逃げたくないという思いのあらわれだろう(かなり遠回しではあるけれど)。
そして、もう一つは、みづきの友人たちに「人間以外の親が選べるとしたら?」と尋ねること。こちらは、父との関係を拒絶したいという思いのあらわれだろう。
それにしても気になるのは、どちらの場面でも、みづきが一方的に尋ねようとしてばかりいることだ。
その姿は「あなたはなぜそんな質問をするの?」と逆に尋ねられるのを恐れているかのように見える。
いや、みづきはまちがいなく恐れているのだろう。「あなたはなぜそんな質問をするの?」と問われたら、みづきは父に会うのを避けている自分の弱さや、今ここにいる自分について物語ることができない弱さを語らなくてはいけないから。
となると、分からないことがまた新たに出てくる。それは北川透の詩の朗読会のシーンが入る位置だ。