「勝手に逃げろ!」(『大脱出!〜脱出ゲームTHE MOVIE』〜)短編映画のことを考える(西山洋市)

小説家に長編が得意な人もいれば短編が得意な人もいてちゃんと認められているように(本屋に行けば「短編集」が長編に負けないくらいたくさん売られている)、映画にも短編が得意な人がいるんではないだろうか。しかし、いまのところ商業的な劇映画のスタンダードは長編だから短編が得意な人は小説とは違って認められにくいかもしれない。しかしデジタル技術(作るほうと配信するほうと両方)によって、映画が小説を書くように簡単に(もちろん小説が簡単に書けるという意味ではなく、使うテクノロジーの簡便さの意味で)作れるようになってきたいま(そうは言っても映画を製作するのはそう簡単なことではないのだが)、映画の短編作家が現れてもおかしくないし、また、短編映画の可能性や面白さが新たに発見されるかもしれない。いや、一番大事なのはそれ、つまり短編映画の可能性や面白さの新発見だ。


そもそも短編映画と短編小説とは構造的には対応していない。むかし和田誠だったか小林信彦だったかが、「長編小説の複雑な筋は映画には向いていない。それよりも短編小説の比較的シンプルなプロットを映画的なディティールで肉付けして膨らませたほうが映画としては分かりやすくて面白くなる」というようなことを書いていて「なるほど」と思ったものだが、長編映画の構造はむしろ短編小説に近いのだろう。
とすると、短編映画はどうなるのか?
ぼくは短編映画の構造は小説というより、むしろ俳諧に近いのではないかと思っているのだ。以前、井原西鶴の短編「死なば諸共の木刀」を映画にしたときにそう感じたのだ。そもそも西鶴の「小説」は現在流通している近代的な小説とは大分趣が違う。心理などの説明はごく少なくて、出来事や事件が簡潔、非情に描かれているだけだ。にもかかわらず人物の人間性というか存在の実感が非常に鮮烈に感じられる。
西鶴の「小説」のそのような簡潔さと鮮烈さは西鶴が元は優れた俳諧師だったことと大いに関係している、と物の本にも書いてあるが、それは西鶴の短編を実際に映画化した者の実感でもあるのだ。「死なば諸共の木刀」を忠実に映画化した「死なば諸共」は18分の短編だが、こういう感覚は長編では描けないと思った。長くしたら無くなってしまうもの、描かないことによって描けるものがあるのだ。何を描かずにおくかに俳諧師の腕が賭けられる。


というわけで「勝手に逃げろ!」は西鶴のような短編映画になっている。西鶴だからもちろん狙いはエンターテイメントだ。


「勝手に逃げろ!」を含むオムニバス『大脱出!〜脱出ゲームTHE MOVIE〜』は現在、渋谷UPLINKでレイトショウ上映中です。プログラムの詳細やスケジュール等はホームページ、
http://daidasshutsu.com/
をご覧ください。なお、10月26日月曜日、19時の回の上映後、西山洋市とゲストの高橋洋によるトークショウが行われます。